2011年5月5日木曜日

刑事罰としての死刑(メッセージ78)

皆様の世界では刑事罰としての『死刑』に対して賛否両論あるようですね。
私どもと致しましても、基本的には望ましくない刑罰であると考えてはおりますが、仮に今の日本の司法制度のままで『死刑』という制度を無くしたとして、皆様の生活の秩序がきちんと保てるのでしょうか?
命を重んじる考えはとても貴重なものですが、亡くなられた被害者の命も同様に重んじられて然るべきものなのではないのでしょうか。
それともう一つ、精神的に病んでいるからと言って刑が軽くなるというのはいかがなものでしょうか?
己の成した事は全て己の責任として負い、生涯その罪を抱えたまま生きてゆく必要があります。
それは何故なのかと言えば、己の成した事の意味を学び、理解する必要があるからなのです。
表面的には許されたとしても、創造主が形作られた法則からは逃れられない事を考えれば、刑罰にこだわる必要もなさそうなのではありますが、皆様が法律を守るのはとても大切な事であり、学びを得るためには必要最低限の約束事なのです。
これらの法律という秩序を保つための目安が存在する事で、皆様は多くの学びを得ているのです。
ですから、もし『死刑』を廃止するのであれば、その刑に代わる新たな制度も同時に考える必要があるのですが、死刑廃止論者の意見を聞く限りでは、そこのところが『置き去り』にされているように見受けられます。
全ての命は重んじられて然るべきものではありますが、命に対する責任ということも同時に考えなければならないのです。
他の方の命を奪っておきながら、『やり得』となってしまうような中途半端な法改正を訴えるのは余り感心できません。
きちんと、『死刑』を廃止した後の制度も考えた上で議論するのが当然と思われますが、皆様はどのようにお考えになられますか?

もし仮に『死刑』を廃止するのであれば、己の犯した罪を明確に理解し、後悔の念を抱きながら後の人生は償いの精神で生活してゆくような心の変化を促せるように、学べる環境を整える必要があります。
しかし、今の制度では難しく思われますので、そこのところを改善する必要があるのです。
それと、精神的に病んでいるとの診断が下された場合は、犯罪者専門の精神病院を設立し、そこで治療を受けながら、己の犯した罪について認識できるようになるまで過ごす必要があると思われます。
己の成した事でありながら、それを理解できないからとして免罪し、そのまま放置ともなれば被害が増えるだけで何も改善されません。
それでは治安が悪くなる一方なのではありませんか?

確かに命は尊いのですが、他の方の命を軽んじておられる方は、大抵の場合ご自身の命も軽んじておられるので、まず全ての命は尊いということを理解できるように学ぶ必要があるのです。
ですから、殺人を犯してしまわれた方が、まずご自身の命の尊さを学べる環境を整える活動から始めるのがよいでしょう。
そして、それらの学びを犯罪を犯してしまう前の方々を対象にした活動へと広げ、予防を促すような方向に向かって行くのがよいでしょう。

これらの知識が、皆様の霊的成長の糧としてお役に立つことが出来ますように。
私どもは、いつも皆様を見守り続けております。

(2008年4月16日)





私たちが霊界通信を目にする時に気をつけなくてはいけないのは、霊的視野を具えた通信霊が述べる『命の尊さ』と、霊的視野を抑制されている人間が考える『命の尊さ』には、一見同じ言葉であっても内容に差異が生じるという点です。
以前メッセージ60で取り上げております様に、双方が同じ言葉を使って意思疎通を図っているつもりでも、同じ言葉に対する各々の印象の違いから、思わぬ誤解を招く場合がありますので、その点については十分に注意しなくてはなりません。
さて、これまでに自己研鑽を進めておられる方にとっては、ごく当たり前の認識を述べたものと受け取っておられることと思います。
一方、これまでにもたらされた霊界通信の多くで、『命の尊さ』に対して「無闇やたらに他者の命を奪ってはいけない」という側面のみが過剰に強調され過ぎた影響も合って、それらの通信の内容に対する理解を深めるのではなく、鵜呑みにして表面的な言葉に従えばよいのだ――と考えてしまう傾向も見受けられます。
しかし、以前のメッセージでも繰り返し述べておりますように、自分なりに考えるという行為が霊的知識の理解に繋がり、ご自身の霊的成長に寄与するのだということを、改めてここで強調しておきたいと思います。
以上の点を踏まえて、ぜひメッセージ54メッセージ57メッセージ58などをあわせてお読みいただき、命についての理解を深めていただければと思います。

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