2011年5月5日木曜日

憤りの正体(メッセージ76)

今回は『憤り』の正体についてお話させていただきたいと思います。
皆様はどのような場面で『憤り』を感じられるでしょうか?
大抵の場合は、価値観を共有出来ない方々に遭遇し、なおかつ不快な思いをされた時などに感じるのではありませんか?
人というものは、自身や大切に思う人たちに危害が及ばない事柄や相手に対しては余り関心が湧かないものなのですが、一度自身や大切な人にも関わる問題であると判断すると、途端に熱心になるものです。
ですから、例え価値観が共有出来なくとも、自身のテリトリーが守られている状態であれば気にならないものなのです。
『完璧主義者』や『潔癖症』と言われるような方の場合は、ご自身との相違がみられるだけで受け入れがたく、例え被害が見込まれなくとも『憤り』を感じる場合があるかもしれませんが。

『憤り』の対象が何ものであるのかは人それぞれですが、霊的な視野が広くなり、曇りなき眼で物事を観察できるようになると、『憤り』のように激しい感情は徐々に抱かなくなってまいります。
『憤る』と言う事は即ち、無知による産物であり、因果を無視した結果なのです。
霊的に成熟する事で物事の道理を理解するようになるので、原因と結果を見通すだけの視野が開けるのです。
そうなると、『憤り』ではなく『慈愛』を感じるようになり、まるでわが子を見守るような心境になれるものなのです。
ですから、『憤り』による攻撃や破壊ではなく、『慈愛』による支援という形に変化してゆくものなのです。
恐怖心を与え無理やりに従わせようとするのではなく、相手の方々が安心して受け入れられる状況を作り出し自立に向けた支援をする事で、いずれは価値観の共有が出来るように皆で育ててゆきましょうという心境になるのです。

完璧に物事を判断し、こなせる存在など、創造主以外にはいないことを知っておかなければなりません。
皆様を含めた霊界全体に存在する霊の中に『完璧』などは存在せず、どんなに成熟している霊であったとしても、『限りなく完璧に近い』という状態なのですから、皆様の世界でほんの少しの意見の相違があったところで、自身の理想とするところの『完璧』を押し付けるのでは思慮が足りないと言えるのです。
皆様ご自身も『完璧な存在では無い』ということを知っておきましょう。

上記のようなわけでございますから、『憤り』は皆様の心が生み出している幻影のようなものであり、成長する事で徐々に感じなくなる感情なのです。
ですが、霊的に成長途上の皆様におきましては大切な感情の一つでございますから、これらの感情を無理に抑える必要はございません。
喜怒哀楽などの感情表現は自我を確立する上で重要な役割を果たしており、とても大切なものなのです。
実体験を通して多くの学びを得、確信出来る真理が増える事で徐々にそれらの人間的な感情は薄れてまいりますが、そこまで成長出来た霊は新たな環境で学ぶ事を選ぶのです。
ですから、私どもが皆様に申し上げたいのは、感情を抑える事ではなく、むしろそれらの感情を大切にしながらも、思慮深くあることが大切であると言う事なのです。
思慮を欠くと争いが起きやすくなりますので、常に思慮深くあることを心掛けましょう。
ご自身も周りの方々も安心して過ごせるようにするための大切な作業ですから。
ご自身なりの意見を持ちつつも、違う意見も尊重出来るように日々努力しましょう。
そして、なぜ違う意見を持っているのか、その結論に達した背後にある環境や文化などを詳しく検証してみることで新たな視野が広がり、皆様ご自身の世界も広がりを見せる事でしょう。

これらの知識を基に霊的成長を目指して邁進していってください。
私どもはいつでも皆様へ向けて力を注いでおります。
どうかその事を忘れないで下さい。

(2008年4月13日)





今回のメッセージは『憤り』の感情に焦点を当てております。
以前メッセージ14で「欲望を強制的に抑制するのではなく、適度にコントロールする術を学ぶのが重要」と述べましたが、それと同じように、喜怒哀楽といった人間的な感情を無理に抑制するのではなく、素直に表現することが大切です。
周囲との調和を高める感情には心地好さを覚えるでしょうし、摩擦を引き起こすような感情には違和感や嫌悪感を覚えるでしょう。
その様な経験を重ねるうちに、より心地好い状態を持続する為には、どの様に自身の感情を制御したらよいのか、その方法を実践を通して徐々に身につけてゆくでしょう。
霊的成長とは、言葉を変えれば、「如何にして自分にとって心地好い状態を持続してゆくか」、その為の技術を身につけることであるとも言えるのです。

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