2011年5月20日金曜日

権利と責任(メッセージ104)

今日は、これまでに幾度となくお話してまいりました『権利と責任』について、今一度、ご説明申し上げておく必要性を感じましたので、お話したいと思います。

何故、今の時期にこのような話題をお話しするのかと申しますと、私どもが皆様の世界を拝見して常々感じている事なのですが、どうやら皆様の世界には『権利を得れば何でも自分の思うが侭に出来る』と、勘違いをしておられる方が少なからず存在し、多くの皆様が巻き添えとなる事も多々あるようですし、最近は特にそれらの現象が顕著に見られるようですので、あえてこの話題を選ばせていただきました。
同じ話題の繰り返しになってしまうのですが、とても重要な事ですので、皆様も是非、私どもと共に『権利と責任』について考えてみていただきたいと思っております。

『権利には必ず責任が付き纏う』と言う事を、私どもは常々皆様に申し上げてまいりましたが、その事に気付かずに周囲を混乱させ、我侭の限りを尽くすような人間が『権利』を得た時に周囲に与える影響を考えますと、私どもとて他人事ではいられないのですが、皆様方はどのように思われますでしょうか?

今現在の日本国において、上記のような事が現在進行形で進んでいるとしたら、皆様の生活はどうなってしまうのでしょう?
そのような事も考えながら、話を進めてまいりましょう。

まずは『家族』を例にとって考えて見ましょう。
あなたが、両親と未成年の――ここでは分かりやすく小学生の二人兄弟の四人家族であると仮定しましょう。
ここでは、家族を支える為に働いている父親が、家族の中で一番の権限を持っていることにしましょう。
そして、そのサポートをしているのが母親であり、父親の次に権限があります。
当然のことながら、小学生であるあなたとその兄弟は、まだ生活能力がありませんので、親に守られている存在となり、ご両親が決めた家族内のルールに従って暮らすことになります。
さて、ここで、家族の長である父親が、責任を果たさずに身勝手な生活を送るばかりか、家族には権限を行使しようとするような人であったとしたなら、あなたの生活がどのようなものになってしまうのか想像してみてください。
まず、父親の次に権限がある母親にしわ寄せが行くのではないのでしょうか?
母親は、責任を果たさない父親の代わりに、一人で父親と母親の役割を背負う事になってしまいます。
このままでは家族でいる意味がないと考え、母親は離婚を考えるかもしれませんし、もしかしたら心労が祟って病気になってしまうかもしれません。
そうなってしまったら、あなたの生活はますます苦しくなってしまうでしょう。
もし、母親も父親と共に責任を果たさないタイプの人であったなら、あなたとその兄弟の生活はどうなってしまうのでしょうか?

このように、ご自身を受身の立場に置き、権利を持つ存在との関わりを考えてみると、権利を持つ者が果たすべき責任の重要性を少しは考えやすくなるのではないのでしょうか?
何しろ、被害を被るのは受身の立場である皆様の方なのですから。
権利を持つ者こそ、常にこの考え方を実践する必要があるでしょう。

上記での例えは一家族でしたが、これがもし、大企業の社長などのある程度の規模を持つ団体のトップであったとしたら、その影響は更に広がります。
トップの者が目先の利益にしか興味を示さない人間であった場合、団体の存続が危うくなるばかりか、その団体と関わりを持つ人々にも大きな影響を与えます。
ですから、トップは常に関わりを持つ全てのものに関心を向け、広い視野で物事を観察し、自らが周囲に与えうる影響を考えながら行動する必要があるのです。
何故なら、『権利を行使すると言う事は、その範囲が及ぶ全ての存在の命を預かっている』ことに他ならないからです。
その事を理解し常に気を配れる者だけが、権利を行使できる資格を持つのです。

権利を持つと言う事は、その権利の分だけ周りに対して影響力を持つと言う事であり、影響力を持つと言う事は、影響を与える相手の分も責任を持つことになるのです。
それが四人家族であれば、権利を持つ者は自身を含め四人分の責任を持つことになり、家族の者が何か不祥事などを起こした場合は、例え自身が行なった行為ではなくとも、権利者の責任となります。
それが、会社組織であれ何かの団体であれ同じ事であり、会社の人間が何か不祥事を起こせばそれは権利を持つ者の責任となるのです。
責任を取る立場であるからこそ、その責任に応じた権利が与えられ、行使できる立場にあるのだと言う事を忘れないようにしましょう。

特に、国家のリーダーともなるとその責任は重大であり、全国民の命を握っている立場になります。
その重みは並大抵の事では無いでしょう。
そのような立場の方には、常に勤勉であり、論理的で思慮深くある事を願うばかりです。
時には大胆である必要もあるのでしょうが、無鉄砲では困ります。
周囲に対する自らの影響力も把握できないようでは困りますし、かといって臆病すぎても困ります。
相手の心理を読み解けるだけの観察眼も必要になってくるでしょうね。
自らの保身の為に国民の命を危険に晒してしまうような、思慮に欠けた考え方は問題外です。
ましてや、自身の言葉や行動に酔いしれ、その影響を省みずに『自分は正しい事をしている!』と満足してしまうような事では困ってしまいます。
その結果に付き合わされる国民はたまったものではありません。
国家のリーダーが上記のような自覚に欠けた方であったならば、国民の皆様の命が危機に晒され、生活は滅茶苦茶になってしまうでしょう。
ですが、民主主義国家の場合は国民の選択によるものなので、国民自身にも責任が伴っており、国家のリーダーだけの責任とは言えません。
国民にとっての責任に応じた権利は『選挙権』であり、その権利を正しく行使できなかった責任は国民自身のものであることを忘れてはなりません。

このように、『権利は責任を果たして初めて行使できる権限である』事を忘れないで下さい。
これはとても大切なことであり、秩序を保つための最低限の心得なのですから。

これらの知識が皆様のお役に立ちましたならば幸いでございます。
どうもありがとうございました。

(2009年9月13日)





メッセージの冒頭にもありますが、このテーマについて問題意識を持っている方は少なくないと思います。
しかし、分かってはいてもなかなか改善に向かわない厄介な問題と言えるでしょう。
特に、ご自身の権利を殊更に主張される方に限って、それに伴う責任には目を背けてしまう傾向があるのではないでしょうか。
そこで、上記のメッセージとは少々別の角度から、この問題について観察してみましょう。
『権利と責任』とは、ある特定の集団内で合意された約束事の表と裏なのです。
『権利の行使』は集団のメンバー個人個人にとってのメリットですが、その『権利が行使できる仕組み』を成り立たせる為には、『責任』というもう一つの要素が欠かせないのです。
なぜなら、応分の責任を伴わない権利は単なる『我が侭』に過ぎない為に、お互いに我が侭を主張し合っているだけでは、権利を成り立たせる仕組みを保てません。
ですから、単なる我が侭に『権利』という名の正当性を持たせるには、それに応じた『責任』と呼ぶ『権利を保証する仕組み』を維持するための約束事を守ることが求められるのです。
その約束事を守ると合意した集団のメンバーが、それぞれに応分の『責任』を果たしているからこそ、その集団の中では『我が侭』ではなく、『正当な権利の行使』として取り扱ってもらえるのです。
本来であれば、応分の『責任』を果たさない方に対しては、その責任に応じた『権利』を認められなくても、文句を言える筋合いではないのです。
是非、その点をしっかり心に留めて頂きたいと思います。

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