2011年5月22日日曜日

人が人であること(メッセージ106)

人である己から逃げないで下さい。
人である己を受け入れられるように努めてください。
人である己を否定する事は現世の否定であります。
何故現世は創造されたのか、その意味を悟ってください。
人として現世に生まれ出でた意味を模索し続けてください。
その道程の先にこそ、真実が隠されています。
現世は祝福された世界。
現世とは本来、安定と繁栄が約束された世界なのです。
人が人である事を否定し続ける限り、現世には混乱が付きまといます。
人である己と正面から向き合い、己を知る事を恐れずに邁進してください。
人である事が如何に幸いであるのかを知る時が、やがて訪れることでしょう。
己を真に理解する時こそ、人が如何に祝福された存在であるのかを知るのです。
悲しみや苦しみは、人が人である事を否定する時に訪れる感情であると知ってください。
喜びや楽しみは、人が人である事を受け入れた時に訪れる感情であると知ってください。
人として現世に生かされている意味を、よく考えてみてください。
人とはどのような存在であるのかを、現世でよく学んでください。
人だからこそ出来る事、人だからこそ学べる事、人だからこそ得られる事、多くの祝福があなたを支えているのです。
偽りは心を蝕み、真実は心を養うでしょう。
偽りは否定の心、真実は肯定の心。
偽りは苦しみ、真実は喜び。
この意味を真に理解する時、あなたは己が祝福された存在である事を天に感謝するでしょう。

(2011年1月4日)





ほぼ一年ぶりに新しいメッセージが届きました。
霊媒は「バチカンの拠点の完全開放が間近に迫っているのかも知れない」と述べておりますが、果たしてどうなのでしょうか。

2011年5月21日土曜日

霊が目指す場所(メッセージ105)

この世界のみならず、生きとし生けるものが目指す終着点は、全てが完璧なまでに調和している世界。
全てはそこに存在しているが、個性がぶつかり合うことなく互いの領域を守り、互いの存在のあるがままを受け止めている世界。
色で言えば無色透明。
この世界の色が強烈なのは、自己主張の激しい世界だから。
白は無垢な状態で、黒は全てが共存しつつも個性がぶつかり合い、鬩ぎあっている状態。
黒い状態を昇華すると無色透明になる。
それぞれの個性が持つ意味や役割を理解し、己を主張し他を制する事に意味を見出せなくなるため、自然に調和を図るようになるのだ。

仏教では、人間には煩悩が百八つあると言われているが、煩悩の数とはこの世界――即ち、物質と霊が結びついて存在している世界の界層が百八つあり、一つの界層の中に八十八の世界が存在する事に由来する。
この八十八は、八十八箇所参りの八十八で、八十八箇所全ての世界をめぐり学ぶ事で、一つ成熟した界層へと進める事を意味している。
そしてこの世界が存在している地球は、界層で言えば一つ目であり、その中でも八十六番目に成熟した世界である。
この世界での学びを終えても、後、八十五の世界での学びが待っているのだ。
この界層での学びを終えても、後、百七の界層で、それぞれに八十八の世界が待っているのである。

霊界は霊界で更に多くの世界と界層が存在している。
それはこの世界の比では無い。
それだけ複雑で、より成熟した知識や技術が存在している世界と言う事だ。
その全てを学ぶためには、より多くの経験と知識が必要なのだ。

この世界は、終着点から見て、まだ二、三歩歩んだばかりといった場所に存在している。
霊界は霊界で四、五歩と言ったところだ。

(ここで言う霊界とは、純粋な霊の世界の事。)

あなた方は、まだ知らない事の方が多く存在しています。
焦らず、驕らず、日々精進してください。
無理をせず、己が心のまま個性を発揮し、押し合い圧し合いしつつ、加減を学んでください。
ぶつかり合う事がなければ、いつまでも加減を学ぶ事は出来ないでしょう。
心を偽りながら、ぶつかり合う事を恐れて生きていては、いつまでも学びを得ることは出来ないのです。
心のままに行動すれば、当然、辛い事にも遭遇します。
ですが、どのような結果も、あなたの成長のための学びであり、糧なのです。
恐れるあまり臆病になり、内に篭っていても、そこから得られるものは己への絶望と焦り、怒りと苦しみのみです。
心を外に開放し、己のありのままを受け入れたとき、それまで見えなかった様々な要素が見えてくるのです。
どうか、その事を忘れないで下さい。

己の心に素直であれ!

(2010年1月13日)





こちらは(メッセージ92)に関連する、霊界事情に付いてのメッセージとなります。

2011年5月20日金曜日

権利と責任(メッセージ104)

今日は、これまでに幾度となくお話してまいりました『権利と責任』について、今一度、ご説明申し上げておく必要性を感じましたので、お話したいと思います。

何故、今の時期にこのような話題をお話しするのかと申しますと、私どもが皆様の世界を拝見して常々感じている事なのですが、どうやら皆様の世界には『権利を得れば何でも自分の思うが侭に出来る』と、勘違いをしておられる方が少なからず存在し、多くの皆様が巻き添えとなる事も多々あるようですし、最近は特にそれらの現象が顕著に見られるようですので、あえてこの話題を選ばせていただきました。
同じ話題の繰り返しになってしまうのですが、とても重要な事ですので、皆様も是非、私どもと共に『権利と責任』について考えてみていただきたいと思っております。

『権利には必ず責任が付き纏う』と言う事を、私どもは常々皆様に申し上げてまいりましたが、その事に気付かずに周囲を混乱させ、我侭の限りを尽くすような人間が『権利』を得た時に周囲に与える影響を考えますと、私どもとて他人事ではいられないのですが、皆様方はどのように思われますでしょうか?

今現在の日本国において、上記のような事が現在進行形で進んでいるとしたら、皆様の生活はどうなってしまうのでしょう?
そのような事も考えながら、話を進めてまいりましょう。

まずは『家族』を例にとって考えて見ましょう。
あなたが、両親と未成年の――ここでは分かりやすく小学生の二人兄弟の四人家族であると仮定しましょう。
ここでは、家族を支える為に働いている父親が、家族の中で一番の権限を持っていることにしましょう。
そして、そのサポートをしているのが母親であり、父親の次に権限があります。
当然のことながら、小学生であるあなたとその兄弟は、まだ生活能力がありませんので、親に守られている存在となり、ご両親が決めた家族内のルールに従って暮らすことになります。
さて、ここで、家族の長である父親が、責任を果たさずに身勝手な生活を送るばかりか、家族には権限を行使しようとするような人であったとしたなら、あなたの生活がどのようなものになってしまうのか想像してみてください。
まず、父親の次に権限がある母親にしわ寄せが行くのではないのでしょうか?
母親は、責任を果たさない父親の代わりに、一人で父親と母親の役割を背負う事になってしまいます。
このままでは家族でいる意味がないと考え、母親は離婚を考えるかもしれませんし、もしかしたら心労が祟って病気になってしまうかもしれません。
そうなってしまったら、あなたの生活はますます苦しくなってしまうでしょう。
もし、母親も父親と共に責任を果たさないタイプの人であったなら、あなたとその兄弟の生活はどうなってしまうのでしょうか?

このように、ご自身を受身の立場に置き、権利を持つ存在との関わりを考えてみると、権利を持つ者が果たすべき責任の重要性を少しは考えやすくなるのではないのでしょうか?
何しろ、被害を被るのは受身の立場である皆様の方なのですから。
権利を持つ者こそ、常にこの考え方を実践する必要があるでしょう。

上記での例えは一家族でしたが、これがもし、大企業の社長などのある程度の規模を持つ団体のトップであったとしたら、その影響は更に広がります。
トップの者が目先の利益にしか興味を示さない人間であった場合、団体の存続が危うくなるばかりか、その団体と関わりを持つ人々にも大きな影響を与えます。
ですから、トップは常に関わりを持つ全てのものに関心を向け、広い視野で物事を観察し、自らが周囲に与えうる影響を考えながら行動する必要があるのです。
何故なら、『権利を行使すると言う事は、その範囲が及ぶ全ての存在の命を預かっている』ことに他ならないからです。
その事を理解し常に気を配れる者だけが、権利を行使できる資格を持つのです。

権利を持つと言う事は、その権利の分だけ周りに対して影響力を持つと言う事であり、影響力を持つと言う事は、影響を与える相手の分も責任を持つことになるのです。
それが四人家族であれば、権利を持つ者は自身を含め四人分の責任を持つことになり、家族の者が何か不祥事などを起こした場合は、例え自身が行なった行為ではなくとも、権利者の責任となります。
それが、会社組織であれ何かの団体であれ同じ事であり、会社の人間が何か不祥事を起こせばそれは権利を持つ者の責任となるのです。
責任を取る立場であるからこそ、その責任に応じた権利が与えられ、行使できる立場にあるのだと言う事を忘れないようにしましょう。

特に、国家のリーダーともなるとその責任は重大であり、全国民の命を握っている立場になります。
その重みは並大抵の事では無いでしょう。
そのような立場の方には、常に勤勉であり、論理的で思慮深くある事を願うばかりです。
時には大胆である必要もあるのでしょうが、無鉄砲では困ります。
周囲に対する自らの影響力も把握できないようでは困りますし、かといって臆病すぎても困ります。
相手の心理を読み解けるだけの観察眼も必要になってくるでしょうね。
自らの保身の為に国民の命を危険に晒してしまうような、思慮に欠けた考え方は問題外です。
ましてや、自身の言葉や行動に酔いしれ、その影響を省みずに『自分は正しい事をしている!』と満足してしまうような事では困ってしまいます。
その結果に付き合わされる国民はたまったものではありません。
国家のリーダーが上記のような自覚に欠けた方であったならば、国民の皆様の命が危機に晒され、生活は滅茶苦茶になってしまうでしょう。
ですが、民主主義国家の場合は国民の選択によるものなので、国民自身にも責任が伴っており、国家のリーダーだけの責任とは言えません。
国民にとっての責任に応じた権利は『選挙権』であり、その権利を正しく行使できなかった責任は国民自身のものであることを忘れてはなりません。

このように、『権利は責任を果たして初めて行使できる権限である』事を忘れないで下さい。
これはとても大切なことであり、秩序を保つための最低限の心得なのですから。

これらの知識が皆様のお役に立ちましたならば幸いでございます。
どうもありがとうございました。

(2009年9月13日)





メッセージの冒頭にもありますが、このテーマについて問題意識を持っている方は少なくないと思います。
しかし、分かってはいてもなかなか改善に向かわない厄介な問題と言えるでしょう。
特に、ご自身の権利を殊更に主張される方に限って、それに伴う責任には目を背けてしまう傾向があるのではないでしょうか。
そこで、上記のメッセージとは少々別の角度から、この問題について観察してみましょう。
『権利と責任』とは、ある特定の集団内で合意された約束事の表と裏なのです。
『権利の行使』は集団のメンバー個人個人にとってのメリットですが、その『権利が行使できる仕組み』を成り立たせる為には、『責任』というもう一つの要素が欠かせないのです。
なぜなら、応分の責任を伴わない権利は単なる『我が侭』に過ぎない為に、お互いに我が侭を主張し合っているだけでは、権利を成り立たせる仕組みを保てません。
ですから、単なる我が侭に『権利』という名の正当性を持たせるには、それに応じた『責任』と呼ぶ『権利を保証する仕組み』を維持するための約束事を守ることが求められるのです。
その約束事を守ると合意した集団のメンバーが、それぞれに応分の『責任』を果たしているからこそ、その集団の中では『我が侭』ではなく、『正当な権利の行使』として取り扱ってもらえるのです。
本来であれば、応分の『責任』を果たさない方に対しては、その責任に応じた『権利』を認められなくても、文句を言える筋合いではないのです。
是非、その点をしっかり心に留めて頂きたいと思います。

2011年5月19日木曜日

衆議院選挙を終えた日本国民の皆様へ(メッセージ103)

さて、昨日は、衆議院選挙がございましたが、有権者の皆様は投票に行かれましたでしょうか?
期日前投票をされた方々もおられたようですが、今回の選挙は、日本にとっても、世界にとっても、大きな意味のある選挙となったようです。
開票結果を受け、皆様それぞれに、様々な思いを抱かれた事と思います。
ですが、これで全てが終わったわけではなく、これから始まるのだと言う事を忘れてはなりません。
選挙結果が出た今、選出された議員はゴールではなく、やっとスタートラインに立った状態なのですから。
これからの発言や行動が、有権者の皆様により選出された議員の皆様に対する評価の対象となります。
逆に、国民の皆様にとりましても、自らの選択による影響が結果として徐々に明らかになってゆきます。

そこで、有権者の皆様に注意していただきたい事がございます。
自ら選出した議員(居住区で選ばれた議員)に対して責任を持って欲しいのです。
“選んでしまえば後は議員にお任せ”などと言う愚かな行為は慎んでいただきたいと思います。
なぜかと言えば、各地域ごとに選出された議員を監督・指導してゆくのが、皆様有権者の義務であり、責任であるからです。
議員はあくまでも皆様の代表なのですから、皆様の声を反映させた政策を実現まで導くのが仕事であり、皆様を養育するのが役割ではないのですから。
そこの所をよく肝に銘じ、自らの居住区から選出された議員の活動を把握するよう努め、誤った選択をしそうな時は軌道修正できるように、常日頃から学ぶ努力を怠らないようにしましょう。
これらは、有権者とって必要最低限の心得であり、これらの認識が正常な国家運営に繋がってゆくという事をよく覚えておいてください。

いつまでも、思う通りに事が運ばないのを議員や公務員のせいにして、自らの非を認められないようでは、例え、日本自体が繁栄し豊かになっても、いつまでもその恩恵には与れず、多少は生活環境が向上しても、常に社会の底辺で暮らしてゆく事になるのです。
自らの身に宿る原因に目を向けず、他に原因を求め責任を問う考え方の持ち主は、努力する事を怠り、夢を見る傾向にあるので、その結果としてそれ相応の境遇で暮らすことになるのです。
自らを弱者と位置付け、努力もせず他者に寄りかかるだけでは何も得るものはありません。
一人で出来る事には確かに限界があるでしょうが、出来る事すら実行せずに助けを待っているだけでは、他者の負担となってしまうだけなので、いつまで経っても、どんなに社会が変化しても、安心して暮らす事はできないでしょう。
自らの行いの結果が、今の皆様ご自身の生活環境であることを忘れないで下さい。

もし選出された議員がきちんと仕事をせず、状況が悪化してしまった場合、その候補者を選び当選させた有権者の皆様は、他の候補者に投票した有権者の皆様も共に負担を背負う事になるのだという事を、この機会にきちんと学んでください。
皆様の一票が、日本国民全員に影響を与える事の重みを知って下さい。
そして、言い訳をせず自らの非を認め、今後は改善の為に自らできることに尽力してください。
それが、誤った選択をした皆様の義務であり、責任なのです。
それ程、皆様の一票は重いものなのだと実感してください。

他の候補者に投票したにもかかわらず、その一票が反映されずに、誤った選択をした皆様と共に責任を負うことになってしまった場合は、悔しいかもしれませんが、ここは協力して自ら出来る事を実践し、状況改善に尽力してください。
行動を起こせば、その努力は必ず実を結ぶ時が来ます。
嘆いて行動を起こさなければ、状況が変わらないどころか悪化するばかりでしょう。
皆様も国民の一員である以上、全ては連帯責任である事はご承知の事だと思われますので、ここは辛抱強くありたいものです。

投票にすら行かなかったという方は問題外であり、責任と義務の放棄をしたとみなされますので、何も言う権利はございません。
これを機会に自らの怠慢を潔く認め、今後は、国民としての責任をきちんと果たしてゆけるように努力していただきたいと思います。

皆様の選択の結果が良い方向に進んだ場合は、きちんとその事実を受け止め、議員を労う必要があるでしょう。
皆様の代わりに国政と言う大変な仕事を担っているのですから、その事に感謝し、議員の皆様が活動し易いように、出来る範囲内でよろしいので、積極的にサポートしてゆく努力をしましょう。
その活動が、結果的に皆様の生活に反映されてゆくのです。

これらの事柄を考慮に入れて、選挙についてよく考えてみてください。
最後までお付き合いいただき、まことにありがとうございました。

(2009年8月31日)





今回のメッセージに関連するテーマは、これまでにも何度か取り上げられておりますが、それらのいずれにも共通しているのは、『真の民主主義国家とは、主権者である国民が国家の運営に責任を持つ国』であると言うこと、あるいは『面倒事の対応を政府や公務員に丸投げしておきながら、結果が気に入らなければ安易な政府・公務員バッシングによる憂さ晴らしでは、民主主義国家の主権者としての責任を果たしていない』という、日本国民の皆様にとって耳の痛い点であります。
そう言う意味では、今回の選挙結果を受けて、これまではぬるま湯の中でわがまま放題が当たり前として過ごしてきた日本の有権者にとって、民主主義国家の主権者が国家の運営に責任を持つことの意味を、ご自身の体験を持って身に刻みつける事となるでしょう。
詳しくは、先日開設しました【Silvercord】関連Blog『銀の紐(inside-Silvercord)』にて、今回の選挙の総括として管理人の思うところを綴っておりますので、興味をもたれた方はこちらも是非ご覧頂きたいと思います。

宗教や宗派の違いについて(メッセージ102)

今回は、皆様の世界での宗教や宗派の違いについて、霊界側ではどのように考えられ、管理されているのかをお話させていただきたいと思います。

霊界には、霊的知識を保管している“記憶庫”のような場所があるのですが、地上の皆様に伝えられている霊的な知識は、全てこの“記憶庫”の知識を引用したものになります。
この“記憶庫”の位置づけとしては、霊界を一つの国として例えるならば、国会図書館のようなもので、霊界全体に存在するあらゆる境涯で生活する人々に必要な霊的知識が収められており、それぞれの境涯ごとに必要な知識を分類して管理しているのです。
そして、一つの境涯に必要な知識においても細かく分類され、時代や地域、文化の違いなどで必要となる霊的知識がひと目で分かるようにまとめてあるのです。

霊的知識の供給元が同じ場所であるのならば、宗教や宗派の違いを霊界側ではどのように考え、管理しているのでしょうか?

皆様の世界では、一つの宗教や宗派に属しておられる方は、他の宗教や宗派を受け入れない傾向が強いようです。
ですが、霊界側での考え方としては、皆様の世界での国や地域の違いと同じようなもので、管理し易いように区分けをしてはあるのですが、表面的には違うように見えるだけで、その源は皆同一のものであり、あえて遠ざけるようなものではないのです。
興味があれば積極的に受け入れ、より成熟した状態を目指すのはとても自然な考え方であり、他者から非難されるような性質のものではありません。
ですから、“仏教徒が教会でお祈りしても構わないし、キリスト教徒がモスクでお祈りしたところで一向に構わない”というのが、我々霊界側で管理している者の考え方なのです。
その源は全て同じものであり、最終的に行き着く先も、又、同じ場所なのですから。

では、何故、それぞれの宗教は違う地域でそれぞれ独自の成長を遂げてきたのでしょうか?

霊的知識は、伝えられる時代や地域の人々の意識に伴って、表現を変えたり、強調する箇所を変えたりします。
ですから、伝えられた時代が古ければ古いほど、人間自体も経験が浅く未熟であり、霊的視野が狭い為に、多くの人間が理解し易いように表現は曖昧でどのような解釈でも出来てしまうというような、大まかな表現で霊的知識が伝えられております。
それとは逆に、新しければ新しいほど、より複雑で、詳細な知識が伝えられてくるようになるのです。

ただ、地域や発展している文化などの違いによる皆様の認識の違いというものもございますので、それぞれ違う地域におろされている霊的知識の場合は、新しければ、必ず、より成熟した考えを持った方々を対象に伝えられた知識である、とは言い切れません。
あくまでも、皆様の求めに応じて必要と思われる知識をお伝えしているだけなので、地域が違えば求められる知識が違うのは当然であり、それが必ずしも他の地域の方が以前に求めた知識よりもより深いものであるとは限らないのです。

あくまでも、皆様人間の求めに応じた形で霊的知識は伝えられているので、求められていない場所に“棚から牡丹餅”的に、何もしなくても得られるといった性質のものではないのです。
ですから、時代や国の違いはそれだけで霊的文化の発達の違いに繋がってゆくのです。
ですが、すべて同じ源から発せられた知識ですので、深く追求してゆく事で、最終的には同一の答えに辿り着く事になるのです。

これらの知識を踏まえた上で、宗教というものについて改めて考えてみてはいかがでしょうか?

特定の宗教を信仰しておられない方も大勢おられると思われますが、それは今回のテーマから逸れてしまいますので、いずれ改めましてお話させていただきたいと思っております。

最後までお付き合いくださり、心から感謝いたします。
これらの知識が少しでも皆様の成長の糧となる事ができたならば幸いでございます。

(2009年8月12日)





今回のメッセージには、霊的知識に関心を持ち、学ばれてゆく中で、誰もが一度は誤ってしまう認識についての解説が含まれております。
これまでに人類の辿った歴史を繙いてみても、『神』の名の下に宗教上の対立の現れとして行われた戦争は、例を挙げればきりがありません。
そこまで過激な行動としては現れていなくとも、特定の宗教団体が他の宗教団体を指して『邪教』と断定し、糾弾の対象にしている例は、現在でも時折見かけられることと思います。
一方、他の国々から見れば『宗教的無節操』とも受け取られかねないほど、宗教や信仰に対して寛容な現代日本ですが、むしろ「それらの宗教を通じてもたらされた霊的知識の断片は、根底の部分で一つにつながっている」と、意識せずとも悟っているような側面が伺えて、とても興味深く感じますが、いかがでしょうか。

また、今回のメッセージでは直接触れておりませんが、霊界から新たな霊的知識が地上界へもたらされる際に、情報の受け手である地上界の霊媒の能力や性質の限界によって、送り手の意図とは異なるメッセージを受け取ってしまう場合、あるいはもたらされた情報の解釈が異なってしまう事例が見られます。
これらについて、当サイトでは以前から(メッセージ34)や(メッセージ35)などを通じて注意を促して参りましたが、場合によっては『霊界との交信が叶った』点に囚われる余り、肝心のもたらされた情報に対する検証が不十分な事例も散見されますので、取り扱いは慎重でありますよう重ねて強調しておきたいと思います。

2011年5月18日水曜日

政治家・公務員と国民(メッセージ101)

皆様、大変お久しぶりでございます。
私どもの事情により、しばらくメッセージを送る事を控えてさせていただいておりましたが、最近の日本の皆様の様子を観察しておりますと、政治家や公務員と国民の皆様の関係を判断する際、材料となります『基本』の部分の解釈を誤っておられるようでございましたので、今回お話させていただく事に致しました。

さて、皆様の政治に対する評価なり、意見なりを注意深く伺っておりますと、『政府が悪いから~』や『官僚が腐っているから~』など、日本の状態が皆様の思うように改善されないのは、政府や官僚のみの責任であるかのような言葉をよく耳にするのですが、その考え方は如何なものなのでしょうか?
この話を聞く限りでは、どうやら皆様は、会社組織に例えるならば、政府=雇用主・官僚=雇われ社長・国民=社員のような感覚で物事を考えておられるのではないのでしょうか?
こう考えてしまうと、国の運営が危うくなれば『政府や官僚が~』と言いたくもなるのかもしれません。
ですが、日本は一部の権力者に支配されている国ではなく、『民主主義国家である』ことを忘れているのではないのでしょうか?
民主主義国家である以上、雇用主=国民であり、政府や官僚は皆様に雇われている社員に過ぎません。
国民=雇用主・政府=雇われ社長・官僚=社員といったところでしょうか。
都道府県や市町村でも考え方は同じで、都道府県民=雇用主であり、市町村民=雇用主という図式は変わりません。
あくまでも、議員や公務員は国民の皆様に税金で雇われている存在であり、日本国の雇用主にはなれないのです。

さて、そうなってまいりますと、先ほどお話した『政府が悪いから~』や『官僚が腐っているから~』という言葉が皆様の口から出るのは少々おかしな現象であるようには思われませんか?
日本国民である皆様が雇用主である以上、雇われ社員である政府や官僚の不始末は、当然雇用主の管理不行き届きの結果であると思われますが、皆様はどうお考えになられますか?
雇用主である皆様は、雇われている立場の政府や官僚の仕事内容を全く把握していなかった事になります。
雇用主である皆様は、日本国の経営状況を把握する努力もせずに、自ら選択し雇っていたはずの政府や官僚に『裏切られた!』と言ったところで何の説得力もありませんし、それではあまりにも無責任ではありませんか。
自分の判断ミスで誤った人選をしてしまったのに、いざ問題が表面化したら『彼らが悪いんだ!私たちは彼らがこんなに腐っているとは思わなかった!!!』と、いくら叫んでみたところで後の祭り、自らの責任を怠ったツケが回って来ただけに過ぎないのです。

これは少々乱暴な表現になってしまいますが、最悪、どの様な人物が政府や官僚の人間として働いていようとも、雇用主である皆様がしっかりと監視し、不正が出来ないようにきちんと人事管理をしていれば良いわけです。
政府や官僚が何か不正を実行しそうな場合は、国民である皆様がきちんと指摘して軌道修正する必要がありますし、成果を出したならば、きちんと評価し労(ねぎら)う事も忘れてはなりません。
自らの成果が評価されず、不当に扱われるのは誰でも嫌なものです。
サラリーマンとして働いておられる方々であれば、その心理はよく解るのではありませんか?
こき使われるだけ使われて、失敗は自分の責任にされ、成果は評価されないような会社で働き続けたいとはどなたも思われませんでしょう?
それは、政府や官僚も同じ事です。
それでも、途中で投げ出すわけには行かないような重大な責務を担っている事をきちんと理解している為に、我侭放題の皆様の評価も甘んじて受け入れているものと思われます。
その事実に皆様はもう少し目を向けたほうが良いように思われるのですが、皆様はどうお考えになられますか?

政治家に強い指導力を求めるのはお門違いであり、皆様お一人おひとりが政府や官僚を監督指導できる存在でなければ、正常な政治は実現しないのです。
皆様はもう少し、『日本という国はどの様に運営され、どのような仕組みで現状が維持されているのか』ということについて学ぶ必要があるように思います。
そして、皆様ご自身こそが日本国という会社の経営者であり、日本の未来は国民である皆様の裁量にかかっているということを忘れてはなりません。

国民全員が日本国の共同経営者なのですから、当然のことながら、皆様の意見が概ね一致している状態でなければ、国の運営はとても難しくなります。
ですが、人はそれぞれ、立場や置かれた環境によって意見はマチマチであり、国民の大多数が満足するような良い解決策が中々見つからない事もしばしばあるのです。
時と場合によっては停滞状態を招き、最悪の場合は現状より悪化する事も当然起こりうるのです。
それ程、大勢の意見をまとめて運営するのは、大変な大仕事であるということをよく覚えておくと良いでしょう。
どうぞそれらの事情を考慮に入れた上で、是非皆様で、今後の日本について、そして政治について、よく考え、大いに語り合ってみてください。

最後までお付き合いくださり、まことにありがとうございました。

(2009年7月13日)





メッセージの冒頭にもありますように、『霊界からのメッセージ』としてはおよそ半年ぶりの更新となります。
この度、衆議院の解散とタイミングを合わせるように、『政治家・公務員と国民』に関するメッセージがもたらされました。
政府や公務員と国民に関するメッセージは、これまでにも何度か送られてきておりますが、この度麻生首相が衆議院の解散を決意したとの報道があり、8月30日に選挙が行われると伝えられておりますので、霊界の住人の皆様としても、『主権者である国民の皆様が国家の行く末に責任を持つ』という事について、関心を深めて頂く良い機会であると考えておられるのではないでしょうか。
国民は、『政府が運営する国家』というシナリオを眺めているだけの傍観者ではなく、政府が運営する国家の行く末について、その利益や損害を共に受ける立場にあります。
国政選挙で国民の代表者を国会に送り、その国会で制定された法律に基づいて公務員が職務を遂行している以上、有権者である国民が「政府(官僚)が悪い」と言って責任を回避できる訳ではないのです。
だからこそ、国民は政府や公務員の職務に対してもう少し関心を持ち、細かな注文を伝え、監視を怠らず、そうして導き出された結果については公正に判断する必要があります。
とかく政府や官僚を叩く風潮が目立ちますが、彼らが成果を上げた際には相当に労う機会もあってしかるべきでしょう。

2011年5月17日火曜日

老いることについて(メッセージ100)

今日は、老いることについてお話させていただこうかと思っております。

『老いる』と申しますと、ネガティブな印象を持たれる方が大勢おられるようですが、霊的な側面を観察いたしますと、それ程、悲観するようなものではない事が分かります。
例えば、新陳代謝が悪くなることについて、霊的な側面から考えてみますと、皆様の身体を構成している細胞に宿る霊が成熟した結果、寿命が延びていると言えるのです。
皆様にとりましては、なかなか細胞が生まれ変わることなく、身体機能が低下してゆくように思われるかもしれませんが、決して機能が衰えているわけではなく、細胞の生まれ変わるサイクルが長くなっているだけの事なのです。
時間がかかるようにはなるのですが、若い頃と同じ様にきちんと機能しているのです。
ただ、その成果が現れるまでに時間がかかるようになってしまったために、『衰えてしまった』と、皆様が勘違いをしているだけなのです。

物質は、そこに宿る霊の成熟度合いで寿命が変わってまいります。
基本的には、徐々に霊的に成熟し、寿命が長くなってゆきます。
ですが、ここで勘違いしないでいただきたいのが、『ご高齢の方が必ずしも若者よりも霊的に成熟していると言うわけではない』ということなのです。
あくまでも、あなた方個々人の身体に限定した場合にのみ、あてはあまる事でございますのでお間違えの無いようにお願いいたします。
人は皆、学ぶ目的や持ち合わせた資質、暮らしておられる環境などが異なりますので、他者と比べて考える事はできないものなのです。

実際に、身体に損傷があり機能が低下している場合もございます。
ですから、いつもと違うとお思いになられましたならば、無理をせず、きちんと医師の診断を仰いだ方が良い場合もございますので、その時々の具合で臨機応変に対応していただきたいと思います。

簡単にではございますが、『老い』の霊的な意味合いについてお話させていただきました。
これらの知識が皆様の成長の糧としてお役に立てましたならば幸いでございます。
お付き合いくださり、まことにありがとうございました。


* * * * *


さて、今後の活動についてのご報告を、メッセージと合わせましてお話させていただきたいと思います。

ただいま、霊的知識を普及する活動が、あまり活発に成されておりません。
その理由と致しましては、日本国内に対する働きかけが早急に必要である為に、そちらの活動を優先的にさせていただいているという事情がございます。
今の日本がどの様な選択をするのか、世界の中にあっての日本のこれからの方向性を決める大事に時期に差しかかっているという事は、皆様にもよくお分かりになっている事でしょう。
『これからの日本がどの様な決断を下して行くのか』という事は、世界に対しても大きな影響を与える結果となります。
ですから、そちらの活動にしばらくの間集中させていただきたいと思っております。
より深い知識を望んでおられる皆様には、大変ご迷惑をおかけする事になってしまいますが、これらの活動も、霊的知識の普及と全く関わりが無い事ではございません。
バチカンの拠点が開かれましたヨーロッパ諸国におきましては、今しばらく混乱状態が続く事になりますが、その後、ある程度混乱が治まったところで、日本がどの様にヨーロッパ諸国とお付き合いしてゆくようになるのかという問題は大変重要な事でありますから、そのための準備に力を注いでゆこうと思っております。
これらの事情を良くご理解いただいた上で、今後も末永くお付き合いいただけましたなら、私どもと致しましても大変に嬉しく思います。

皆様が、常に心穏やかに過ごす事ができますように。
いつでも私どもは皆様を見守っております。
お付き合いくださり、まことにありがとうございました。

(2009年1月14日)





上記メッセージにもあります様に、霊的成長を求める方に向けて霊的知識をお伝えする活動が、ここに来て停滞しております。
一方、これまでは『Silvercord番外編』としてまとめられていた、特定の名を名乗る霊からのメッセージや、日本のパワースポットを取り扱ったメッセージの比重が高まっております。
そればかりでなく、霊界の住人の要請に応じて私たち(霊媒Mと管理人)が仲介し、現在地上界で生活をされている特定の方へ向けて直接メッセージを送る——といった試みも始められております。
以前(メッセージ33)や(メッセージ44)でも取り上げております様に、現在私たちと活動を共にしている霊団が担っている本来の役割は『バチカンの拠点開放に伴う霊的知識の普及活動』なのですが、何故今急に方針転換の表明があったのか、少々不可解な気がします。
ですが、それは今後霊界から私たちに対してどの様な働きかけがあり、それによって物事がどの様に展開していくのかをつぶさに観察することにより、今の私たちには知るよしのない霊界の住人の意図を理解したいと思います。

いずれにせよ、以上の理由から『霊界からのメッセージ』はメッセージ100を以て一区切りとさせて頂きたいと思います。

なお、私たちは昨年より定期的に降霊会を行っており、現時点ではWeb上での公開を差し控えているものの、大変興味深い様々な情報を得ております。
なぜ公開を差し控えているかと申しますと、霊界側からの要請や、取り扱いに気をつけないと読者の皆様に誤解を与える可能性があると考える情報が含まれているからです。
しかし、その様な情報についても、折りを見て少しずつ公開の方向で調整していきたいと思いますので、今しばらくお待ち下さい。

2011年5月15日日曜日

幸福を感じながら暮らすために(メッセージ99)

今日は、幸福を感じながら暮らすために必要な事をお話したいと思います。

不幸を感じながらお過ごしの皆様は、大抵の場合、今現在問題が発生しているわけではないのに、取り越し苦労をして不安を感じている事が多いようです。
不安となる材料が無いのであれば、自らが望む未来を見据えて、今出来る事に励めばよいのですが、まだ起きてもいない未来に対する不安に駆られて、今ある幸福を見過ごしているようです。
今という瞬間は、二度と訪れる事はありません。
折角、幸福を感じるための材料があなたの周囲を満たしているのであれば、存分に味わっておく事が今後のあなたのためになるというものでしょう。

とは申しましても、決して『脳天気になれ』と言っている訳ではございません。
もしもの時のために必要な備えはやはり大切なものですから。
ここで私どもが申し上げたいのは、過剰に反応し、必要以上に不安を感じる事には意味が無いという事なのです。
そんな事では、いつも不安に駆られてしまい、安心して過ごす事などとても出来ませんから。
常に非常時に備えているのであれば、もう心配する必要は無いではありませんか。
起きてもいない事に対する心配は、備えをするための思慮程度に止めておくのが一番です。
こうしておく事で、もし何かが起きても対処できるのですから、必要以上に心配しなくてもよいでしょう。

さて、今現在大変な境遇にあり、とても心に余裕を持つ事ができない方々も大勢おられると思いますが、そこで、そのような皆様にお聞きしたいのですが、冷静に今を見つめ、あらゆる可能性を模索してみましたか?
『とても不安でそんな余裕はない!』と思っておられるかもしれませんが、今の皆様には一番重要なことなのですよ。
大変な時こそ、一呼吸置いて冷静になる必要があるのです。
そうでないと、物事を悪い方へと考えがちになり、八方塞のような気分に陥り、どんどんご自身を追い詰めてしまう結果となってしまいます。
冷静に周囲を見渡し、対処法を考えてみる事で、必ず今の不安定な状態から脱するための糸口が見つかるはずです。
自暴自棄になってしまうと、折角幸福な未来に繋がるチャンスがあったとしても、見過ごしてしまいますので注意しましょう。
そして、全てを自分で抱え込んでしまうのではなく、相談できる人や力添えが見込める人があなたの周囲に居るのであれば、頼ってみるのも一つの方法です。
ご自身の力だけではどうにもならない場合に、力添えしていただける方にほんの一時寄りかかる事は、決して依存にはなりませんから、無理をして自分だけで解決しようとせず、たまには誰かを頼ってみましょう。
そうする事で、『どん底に居る筈なのになぜか幸福感を感じる…』と思えるだけの心の余裕が生まれるかもしれませんよ。

これらの知識が皆様のお役に立てましたならば幸いでございます。
どうもありがとうございました。

(2008年12月24日)





幸せについては、管理人にも個人的に思うところがありますので、この場をお借りして簡単にご紹介したいと思います。

よく『幸福感』や『幸せを感じる』などと言う表現を耳にしますが、幸せとは正にその人の感性の問題であり、幸せを感じられる感性を磨くのが幸せへの近道だと考えております。
幸せには特定の形や条件があるわけではなく、本人の主観に基づいた特定の心の状態を指すからです。
端から見れば羨ましがられる生活環境に見えたとしても、その中にいる当人が必ずしも幸せを感じていないという現象がしばしば見受けられる理由は、『幸せの正体』を見誤っている為に、見当違いの手段に頼って思い通りの結果を導き出せないだけなのです。

『幸せの正体』を正確に見極められれば、誰もが幸せを感じることが出来るのです。
人は皆、生まれながらに『幸せを感じる能力』を潜在的に宿しているのですから。

2011年5月14日土曜日

『家族』について(メッセージ98)

今日は、皆様の世界での基本中の基本である『家族』についてお話したいと思います。

既にお気づきの方も大勢おられる事と思いますが、『家族』というのは人間関係を最も小さく単純化させたいわば『雛形』であり、この世界で学ぶために一番最初に属するのがこの『家族』という集団です。
『家族』との向き合い方で、皆様の社会に対する姿勢というものが見えてまいります。
外でどんなに取り繕っていたとしても隠し通せるものではなく、必ず世間の皆様が知るところとなるものです。
『家族なんだから~』などと甘えるばかり、というような覚えが皆様にも少なからずあるのではありませんか?
例え家族でも皆様と同じ人間です。
時には疲れてイライラしたり、体調が優れなかったりと、いつも皆様を気遣い、許す事ができるわけではありません。

それは例え親子であったとしても同じで、親だから出来て当たり前という事はありません。
ですから、親は謙虚である必要がありますし、子供の方も親に完璧を求めないようにする必要があります。

『家族』間で気遣いを示せない方は、社会に出ても同様に気遣いを示す事はできません。
それはなぜかといえば、このように他者に気遣いを示せない方は、物事を考える基準が己のみの場合が多いからです。
『解ってくれて当たり前』『気付いてくれて当たり前』などと都合の良い事ばかりを考え、思うようにならないと八つ当たりをするか閉じこもってしまうのです。
これらの心癖は社会に出てからも中々治らないものなのです。

例え『家族』であったとしても、思っている事はきちんと言葉にして伝えなければ、あなたが何を考えているのか相手には解りませんし、酷い事を言われれば傷付きもします。
あなたと同様に、感情を持っているということを忘れないようにしましょう。

さて、ここからは『家族とは?』ということについてお話したいと思います。

皆様が『家族』の条件として最も重きを置いている事とは何ですか?
血の繋がりですか? それとも、心の繋がりですか?
皆様が思うところの『家族』の定義というものはとても曖昧で不確かなものであると私どもは考えておりますが、皆様はどう思われますか?

私どもが考える『家族』とは、互いの心が深く繋がりあい、より多くの時間を共に過ごし、多くの感情を共有してきた間柄であると考えます。
共に喜び、共に泣き、共に苦難を乗り越え、離れていても安心できる、心が常に共にあるのが自然で当たり前の存在、それが『家族』というものです。
安心して寄り添い、互いを許し、支えあいながら共に生きてゆくパートナーであり、最も信頼出来る存在なのです。
従って、『家族』になるために血の繋がりというものはあまり関係がありません。
その証拠に『夫婦』には血の繋がりはないでしょう?
それでも『家族』として互いを信頼し、支えあいながら暮らしています。
ですから、例え親子としてであったとしても、血の繋がりがなくとも充分に『家族』として愛情を注ぎながら大切に育ててゆく事は可能なのです。

皆様は、まだ霊的に未熟な状態であるために、このような『家族』関係に対してはあまり良く解らない方もおられるとは思いますが、基本的には、血の繋がりが無くとも心の繋がりを築き、より深い絆を結ぶ事は可能なのです。
子供が生まれないからと、不妊治療される方が大勢おられる昨今ではありますが、是非、親を必要としている子供達にも目を向けてみていただきたいと思います。
あなた方のその暖かい腕に抱きしめられ安心できる日を夢見ながら、日々暮らしている子供達がいることを忘れないで下さい。

これらの知識が皆様の成長のお役に立てましたならば幸いでございます。
どうもありがとうございました。

(2008年11月27日)





メッセージの冒頭にもありますが、家族との付き合いは、人生を送る上で体験する様々な形態の人間関係を凝縮したものと言えるでしょう。
しかも、血縁関係という肉体的側面における特別に強い繋がりが、たとえ性格面で折り合いの付きにくい間柄であっても容易には絶縁できない要因となっております。
霊的な成長段階が十分でなく、自我の形成が未熟な状態では、どうしても自分自身の事ばかりに関心の矛先が向きがちで、周囲との関係や周囲の出来事にまで気を回す余裕が生まれません。
ですが、家族との関わりは、人間として地上界に誕生した時点から否応なく始まりますから、人はまず家族関係を通して自分以外の人間への関心を深めてゆくのです。

とはいえ、中には天涯孤独の身の上の方もおられるでしょう。
そんなあなたは、肉体的な血縁関係に頼らなくても、既に他の方々との良好な人間関係を築ける程度には成熟していたのかも知れません。

より霊的な側面に目を向ければ、個々の関係を深める要素は『価値観の共有化』であり、成熟した方にとっては血縁関係よりも遙かに強くお互いを結びつける動機となるのです。

霊的に未熟な為に陥りやすい心の動き2(メッセージ96)

今日は前回のメッセージに続きまして、霊的に未熟な方が陥りやすい心の動きについて、もう一パターンご紹介したいと思います。

自らの無力さの言い訳として『悲劇のヒロイン』を装うタイプの方が存在します。
出来ない事に対する言い訳を作り上げる事で、努力することなく他者に『依存』しようとするのがこのタイプの方の特徴です。
この考えを持つ方は、自ら努力して一から作り上げる事に価値を見出していません。
哀れみを誘う事で周囲の関心を集め、そのことで自らの存在を確認すると共に、甘える対象を常に捜し求めます。
行動を起こす前から、『自力では生きてゆけない』と自ら諦めてしまっているのです。
この考え方も、自らの限界を決めつけ、今以上に成長する事を拒み続けている証拠であり、他者を貶めてしまう方々となんら変わりがありません。

何故自らの力量を決め付け、貶める結果となるような行動をとるのですか?
努力は必ず実るものなのに、行動を起こす前から諦めていたのでは、今までと何も変わらないのではありませんか?
折角、成長するためのチャンスがそこココに転がっているのに、何故自らそのチャンスを手放すような事をしてしまうのでしょうか?
これらの考え方をお持ちの方は、ご自身を冷静に振り返り、今後についてじっくりと腰を据えて考えてみる必要があるでしょう。

人は皆、手探り状態で暮らしているようなものです。
何事も経験を通してしか学び取る事はできないからです。
不安をその胸に抱き、時には立ち竦んでしまいそうになりながらも、皆自らの足で歩んでいるのです。
あなた方がどんなに拒絶したところで、いつかは乗り越えなければどうしようもなくなる時が訪れます。
追い詰められて、切羽詰った状態になってから慌てて動き出すのか、それとも、もっと余裕のある段階で動き出すのかはあなた方次第です。

あなた方には必ず、一人ひとりに守護霊がついてその生涯をサポートしているのですから、是非、勇気を持って行動に移してみていただきたいと思います。

簡単にではございましたが、今日はこれでお話を終わらせていただこうかと思います。
お付き合いくださり、まことにありがとうございました。

(2008年11月7日)





前回のメッセージでは、霊的に未熟である為に恐怖心に駆られて攻撃的になったり、虚勢を張ったり、あるいは他人の欠点を突いて足を引っ張るなどの、卑劣な行為に走ってしまう心理状態についての説明がありました。
今回は霊的に未熟である為に陥りやすいもう一つの側面として、自らを悲劇のヒロインと思い込むことで、目の前の困難からの逃避の言い訳とする心理状態の説明となります。
これらの心理状態は、人によって程度の多少はあっても、誰もが一度は経験があるのではないでしょうか。

ここで是非とも抑えておきたい点は、その様な自身の未熟さを認識して、未熟さの原因である知識の不足を解消すること、物事に対する理解を確信に深めてゆくことこそ、私たちが人間として地上界で生きる意味なのだと言うことです。
未知への恐怖に怯えているのは貴方だけではありません。
ですが、未知への恐怖心と同時に、未知への好奇心も宿っております。
貴方の中の好奇心を育てることで、未知への恐怖心を和らげることが出来るのです。

成功と幸せ(メッセージ97)

『信仰心を強く持ち、神(仏)の言葉に従っていれば、あなたは必ず成功を手にして幸せになれます。』などの触れ込みで信者を獲得し、じわじわとその精神を犯し懐柔してしまうという、何とも困った方法で多くの方を惑わせている団体等が数多く存在する昨今でございますが、皆様が『霊的真理』をもっとよく理解していたなら、このような策略にはまり込んでしまうことはないのです。

そもそも、幸せというものは、何かを手に入れたから得られるという性質のものでも無ければ、他者から与えてもらうものでもありません。
あくまでも『あなた方ご自身の心がどのように感じ取っているのか?』というのがポイントであります。
そう、心で感じるものなのです。
例え同じ物を手に入れたとしても、人によってその胸に抱く思いは様々なのです。
ですから、必ずしも成功を手にしたからといって『幸せになれるとは限らない』のです。
もしかしたら、手に入れる前に思っていた程の魅力が無いかもしれませんし、手に入れたなりの苦労が伴うかもしれないのですから。
それとは逆に、失敗だらけの人生だから『不幸であるとは限らない』ということも敢えて言及しておきましょう。
周りから見たら苦労だらけの不幸な人生を生きているように見える方でも、ご本人はこの上ないやりがいと喜びを感じ、幸せであると思っているかもしれません。

失敗してみる事で見えてくるものは沢山あります。
今まで当たり前であると思っていたものが、実はとても貴重で価値あるものであることに気付く機会が得られるかもしれませんよ。
逆に、今まで価値あるものと思っていたものに大した意味を見出さなくなるかもしれません。
人は失敗を繰り返して成長します。
『霊的真理』を確信するには避けては通れない道なのです。
そのことを理解していたならば、冒頭のような誘い文句に惑わされる事は無いのですが、人というのは欲望に忠実であるために、少しでも他者より優位に立ちたい、いい思いをしたいと思ってしまうのでしょう。
未熟ゆえの過ちといったところでしょうか。

どんなに物質的に成功し、裕福な生活をしていても、霊的成長とそれには何の繋がりもない事は、よく学ばれておられる皆様には既にお解かりのことでしょう?
大切なのは、『どれだけ物を得たか?』ということではなく、『経験から何を学び取り、どれだけご自身を理解する事ができたか?』ということなのですから、財力や権力などで人を判断するのは思慮が浅いというものです。
もっと冷静に物事を観察し、物事の流れや裏側を読み取れるだけの目を養う努力をしましょう。
その能力は、必ずいつか、あなた方ご自身の身を助ける事になるでしょう。

物質的な繁栄をチラつかせ、皆様の欲望を刺激する形の勧誘をするような団体は、まず 『霊的真理を理解している事はありえない』ということを良く覚えておきましょう。
『真理』を本当に理解している方は、どのような環境や状況下にあったとしても、必ずその中に『幸せと感じられる要素が含まれている』ということを充分に理解しているのですから、表面的なことで人の関心を惹く必要が無い事は了承済みなのです。

これらの知識が皆様の成長のお役に立てましたならば幸いでございます。
まことにありがとうございました。

(2008年11月7日)





メッセージにありますように、『成功』や『幸せ』は宗教団体に関われば手に入る訳ではなく、また『成功=幸せ』と言うわけでもありません。
しかし、その点に対する知識不足、理解不足の為に、聞こえのよい宣伝文句に乗せられて安易にその様な団体に関わり、結果として人生を大きく誤ってしまう方もおられるでしょう。
いわゆる『真理』や『霊的知識』は、日常生活を注意深く観察していれば幾らでも習得することが出来るのですが、そう認識できるまでに成熟されていない方の中には、宗教団体の大仰で格式張った儀式の中に、「とても素晴らしい知識が隠されているのではないか?」という錯覚を覚えてしまう場合もあるようです。
物事の本質は単純で普遍的なのですが、特殊で物珍しく感じられる物に惹かれてしまうのは、未熟さ故に表面的な部分に囚われてしまうからなのでしょう。
メッセージ85)で、『シルバーバーチ霊』が活躍していた当時のキリスト教会を指して、
彼らもまた、『特別意識』をもち、聖書に記されている『真理』に対して鈍感であり、『イエス』が語った内容をよく吟味する事も無く、都合のよいところだけを引き合いに出し、自らの思うとおりに多くの民を誘導しようとしていたのです。
と述べておりましたが、その他の宗教団体にしても、程度の違いはあれ概ね同様のことが言えるのです。
その点を十分認識された上で、ご自身にとって霊的真理を学ぶ為に適した手段を吟味していただければと思います。

2011年5月11日水曜日

『純真無垢』で『従順』であること(メッセージ94)

今日は、皆様が勘違いしている『純真無垢』で『従順』である事についてお話したいと思います。

特に、宗教組織に属しておられる方々に価値ある意識として強く信じられている傾向にあるようなのですが、『純真無垢』で『従順』であるということにはどのような意味があるのでしょうか。

『純真無垢』であるということは『無知』ということですし、『従順』であるということは『自我を捨てる』ということになるのですが、皆様はどのようにお考えになりますか?
私どもから見ればそのような状態は『赤子同然』であり、『いつまでも成長しない』事になるのですが、何故このような状態に置かれ続けることが価値あるものとして認識されているのか、とても理解に苦しむところです。

これでは、何のために地上界で暮らしているのか、いつまでも理解できないのではありませんか?
皆様は、何も知らないままに苦しみを繰り返す事を望んでおられるのでしょうか?
いつまでも『赤子同然』ということは『大人になれない』ということであり、責任に対して無関心であり、いつまでも誰かに依存し続ける事になってしまうのですが、皆様はそれで良いと思っておられるのでしょうか?

その依存する相手が例え『神』であったとしても、『全てから救ってもらえる』などと考えておられるのであれば、甘えもいいところです。
『神』が唯一皆様に望むのは『霊的成長』であり、決して『神』に依存して言いなりになる事ではございません。
自我を育み、自らの責任は自らが背負う覚悟を持つ事が霊的成長には大変重要な事なのですが、どうも勘違いをされている方が大勢おられるようですので注意が必要です。

皆様はこの地上界において、自我を強く自覚し、その感覚を育て強化してゆく事が重要事項の一つであるにも関わらず、そこからかけ離れた事がまるで『素晴らしい』ことであるかのように考え、『自我を捨て』てしまう傾向にあるようですので、この考え方は『大変危険である』ということを良く覚えておきましょう。

『自我』を自覚し始めたばかりの未熟な頃は確かに、周囲の方々の事など気にも留めておりませんから、皆様にとりましては『迷惑で厄介』なものでしかないかもしれませんが、それらの経験を経て初めて、周囲に関心が向くところまで成長できるのです。
いつまでも我侭ばかりをしていては、自身にとっても良い事は無いという事を経験を通して学ぶからです。
これらの経験は、『真理』を確信するために必要なものですので勘違いしないように注意しましょう。

この地上界において経験する事や感情は全て、霊的に成長するための材料であり、皆様ご自身が『有益か? それとも無益か?』と勝手に解釈しているだけなのです。
『人間万事塞翁が馬』という言葉がございますが、皆様の考えておられる 『良し悪し』の基準だけで物事を見通せるわけではないことは、この言葉から学べるのではないのでしょうか。

ほんの一時の出来事を切り取って見ただけで、物事の全体を判断する事は不可能なのです。
過去から現在への流れを考えた時、初めて未来を想像してみる事ができるのです。
原因と結果を見通せる目を養うためには、『純真無垢』で『従順』な状態では適わないのだという事を良く覚えておきましょう。

これらの知識が皆様の成長のお役に立てましたならば幸いでございます。
どうも、ありがとうございました。
私どもはいつも皆様のことを見守っております。

(2008年10月22日)





今回のテーマは、最近の通信で繰り返し述べられている内容と非常に深い関わりを持っております。
その理由として、管理人から霊媒Mに対して「マスメディアやインターネットを通じて、意識的に時事ニュースや世間の動向に注意を払ってもらいたい」と要望している点があります。
霊媒Mが得た情報に対して、霊界で説明が必要と考えた点についての反応を期待したからです。

特に、今回を含めた10月にもたらされたメッセージの多くは、霊媒Mがインターネット上のいわゆる『スピリチュアル系サイト』を閲覧した際に、霊界から返されたリアクションです。
当サイトでも以前ご紹介したそれらのテーマについて、敢えて繰り返して指摘する背景には、「本来なら霊的知識の普及と理解促進を目的としている筈の『スピリチュアル系サイト』に、理解の足りていない側面が伺える」点があるとのこと。
ですから、ご覧の皆様にはぜひ「霊界通信の内容を鵜呑みにしないで、よく考えること」を重ねてお勧め致します。

著名な霊界通信である『シルバーバーチの霊訓』でも、シルバーバーチ霊が以下のように述べております。
「理屈を言ってはいけません。そう信じればよいのです」――私はそんなことは申しま せん。反対に「神が与えてくださったもの(知的思考力・理性)を存分にお使いになって私をお試しなさい。しっかり吟味なさってください。そしてもしも私の言うことに卑劣なこと、酷いこと、道徳に反することがあれば、どうぞ拒否なさってください」と申し上げます。

霊的に未熟な為に陥りやすい心の動き(メッセージ95)

今日は、霊的に未熟な方が陥りやすい心の動きについてお話したいと思います。

以前もお話したことがあると思うのですが、霊的に未熟であればある程、自我が乏しいために己を見失いやすく、知らない事が多いために恐怖心を抱きやすい傾向にあります。
その恐怖を解消するために『素晴らしい自分』を演出し、周囲の方からの関心を得ることにより己という存在を確かめようとしてしまうのです。
『自分自身』では無く、『他者』が全ての物事を判断する基準となってしまう為に、周囲の評価を気にするあまり表面的な事柄ばかりに目が向いてしまい、結果として、己の内面を見つめ客観的に判断する事が難しくなってしまうのです。
これらの思いは誰の心にも潜んでいるものであり、全ての方に陥る危険性がありますので、常日頃から意識して自分自身を見つめなおす時間を設ける必要があるのです。

何かの決断を下す場合は、常にご自身の考えに基づいている必要があります。
例え他者の意見に賛同する場合であったとしても、同じ様にご自身で納得できるまで考えた末に決断する必要があるのです。
『他者がどう考えているのか?』ではなく、『ご自身がどう考えているのか?』ということが重要なのです。
どのようなときでも、『責任』は決断したあなた方ご自身についてまわるのですから。
例え誰かに『依存』していたとしても、この地上界を含めました霊界全体を取り巻く法則は、言い逃れ出来るような中途半端なものではないのですから、ご自身が考え抜いた結果選び取った未来の方が良いと皆様も思われませんか?
その方が、どのような結果が待っていたとしても納得が行くと言うものです。
納得できればその結果から学びを得ることが容易になるのです。

それともう一つ陥りやすいのが、他者の欠点に注目し、周囲の人間も巻き込んでその欠点に関心を向ける事で、自身の安全を確保しようとすると同時に、『自分の方がまだマシだ』と己を慰(なぐさ)める材料にしようとする心の動きがあります。
これは、己の自信の無さから来る心の動きであり、ご自身の限界を決めつけてしまうという卑屈な考え方から生じた苦肉の策といえるでしょう。

この考え方に陥ってしまうと、他者の足を引っ張り、評価を貶める事で満足を得ようとしてしまうので、なかなか浮上する事は叶わず、霊的成長は見込めません。
それはなぜかといえば、他者の評価を落とす事に目を奪われ、己の心を磨く努力を怠ってしまうからなのです。
いつまでも同じ場所をグルグルと廻り、前へ進む事ができなくなってしまうのです。

なぜご自身の限界を決め付けてしまうのでしょうか?
努力し続ければ必ず成長できるのに、自ら放棄してしまってはどうにもならないのではありませんか?
ご自身の力を信じて磨いてあげる事ができるのは、やはりあなた方ご自身であるということを忘れないで下さい。
他の誰が信じなくとも、あなた方がご自身のことを信じてあげなければ、ご自身があまりにも哀れではありませんか。
誰でも最初は無知で無力で弱い存在なのです。
それでも、諦めずにコツコツと努力を重ね、その経験から知識を蓄えるからこそ霊的にも成熟し、多くの方々から信頼を得るまでに成長できるのです。
そのことをどうか忘れないで下さい。

これらの知識があなた方の成長のお役に立てれば幸いです。
ありがとうございました。

(2008年10月25日)





今回のメッセージについては、普段皆様の身の回りで見かけられる光景なのではないでしょうか。
あるいは、皆様ご自身がかつてその様な体験をされたのかも知れませんし、現在その様な心の状態に囚われているのかも知れません。
そこで問題となるのは、他者に依存する心の動きがよいとか、よくないと表面的に分け隔てするのではなく、自分自身の心の動きを事後にでも冷静に振り返り、「何故そうなってしまったのか?」を客観的に分析する姿勢ではないでしょうか。
知識の不足がもたらす恐怖心が自己防衛の為の過剰反応を引き出し、無知故の過剰反応が周囲との間に余計な摩擦を生んでしまう点についても、「知っているのが素晴らしい」とか「知らないのが恥ずかしい」と言った、表面的な現象に囚われない様に気をつけたいですね。
俗に『高級霊』と呼ばれる存在でも、かつては皆様同様に知らないことが沢山ありました。
しかし、彼らはこれまでに皆様よりも多くの経験を積む中で、現在の皆様と比べればより多くの知識を得て確信を深めた——たったそれだけの違いでしかありません。
皆様もいずれは『高級霊』の境涯に達し、彼らが現在行っているように、地上界を生きる方々に向けて霊性向上を働きかけるようになるでしょう。

喜怒哀楽の感情について(メッセージ93)

繰り返しになってしまいますが、喜怒哀楽の感情にスポットをあててお話をしたいと思います。

喜怒哀楽の中でもとりわけ『負の感情』を抱く事に対しては嫌悪感すら覚えるという方が大勢おられますね。
とくに、宗教団体に属しておられる方々に多く見られる現象ですね。
怒りや悲しみ、苦しみや恨みなどの感情は確かに、強く心に抱き続けていて気分の好い感情ではありませんし、あなた方ご自身も周囲の方々も不幸に巻き込んでしまう大変危険な感情ではあります。
ですが、無理にご自身の感情を押さえ込んでしまったり無視し続けてしまう事で、周囲の方々が抱く『負の感情』にも鈍感になり、結果として正論を振りかざした挙句に周りの方々を追い詰めてしまったり、苦しめる事にもなりかねないのです。
ご自身の内に湧き上がる感情を無視し続けた結果、相手の気持ちを察し、思いやるということが出来なくなってしまうのです。

これでは、本末転倒というものなのではないのでしょうか?
皆様は、一体何のために『負の感情』を抑制しようと努めてきたのでしょうか?
それは、決して周囲の方々を追い詰め、苦しめるためではなかったはずです。
今一度、冷静に考えてみる必要があります。

感情というものは、自我を確立し強く保つ上で必要不可欠なものですし、周囲の方々の感情を理解するためには、ご自身が抱く感情に敏感でなければなりません。
あなた方ご自身が経験しているからこそ、周囲の方々の思いを察し、より適切な対応をする事が出来るのです。
ですから、皆様もご自身の感情を大切になさってください。
そのうえで、感情を抑制してしまうのではなく、上手に制御し、周囲の方々を理解するパートナーとして思いやってあげてください。
あなた方がその心のうちに抱いた『負の感情』はいつか必ず、大切な愛おしい誰かの気持ちを理解するための役に立つ事でしょう。

それに、ご自身がその心に抱く思いを許してあげる事が出来なければ、周囲の方々の過ちを許す事もできず、蔑み罵り続けてしまうかもしれません。
それでは、他者を思いやる事もできない、身勝手な暴君になってしまうのではありませんか?
そうなる事があなた方の望みではないのでしょう?

大切なのは『負の感情』を抱かなくなる事ではなく、どのような時にその気持ちが湧き上がり、何がその思いを治めるキッカケになったのか、その仕組みを理解し、制御する術を学ぶことなのですから。
怒りや悲しみ、苦しみや恨みなどの『負の感情』をその心に抱くのは『真理』を確信に導くために、とても大切な役割を果たしているということを良く知っておきましょう。

これらの知識が皆様のお役に立てましたなら幸いでございます。
どうも、ありがとうございました。

(2008年10月16日)





このテーマについては(メッセージ76)を始め、過去の通信で度々取り上げられておりますが、既にある程度霊的知識を学ばれている方でも、人間的な(特にネガティブな)感情表現に対して否定的な見解を示される方もおられるようです。
しかし、私たちがこの世界で積む全ての経験は、たとえどの様な些細な経験でも自身の霊的成長を促す貴重な要素であり、その経験から目を背けるよりも正面から受け止めて理解を深めることに意味があるのだ——という点にも着目していただければと思います。
感情を無理に抑えようとしても抑えきれるものではなく、むしろ感情を過度に抑制した為に肉体的・精神的な病を患ってしまう場合もあります。
ですから、激しい感情に振り回されてしまっている間は難しいとしても、その後気持ちが落ち着いた時にでも、何故激しい感情に囚われてしまったのかについて、冷静に思い返してみるとよいでしょう。
自分自身を冷静に振り返る習慣を身につけることによって、どの様な原因でどの様な感情が湧き上がり、そして感情の高ぶりがどの様な結果を招いてしまうかと言う、一連の事態の推移についての因果関係を見極めることが出来るようになるでしょう。
一度自分自身の感情が湧き上がる仕組みを理解できれば、他の人の感情の高ぶりについても自分自身の経験を参考に、想像して察することが出来るようになります。
相手の感情の動きを理解し察することが出来れば、無理に感情を抑えようとしなくても、自然と穏やかな対応が出来るようになります。
理解を深めて確信できるようになると、わざわざ意識しなくとも自然にそれらの一連の行いが出来るようになります。
それが当たり前になるのです。

たとえネガティブな感情に悩まされても、その感情を繰り返し経験することによって、感情をうまく制御する方法を理解できるようになるのだと言う点にこそ、注目していただけばと思います。

霊界の構造について(メッセージ92)

今日は、霊界がどのような構造になっているのかを、簡単にではございますが、ご説明させていただきたいと思います。

霊として初めて誕生した際は、自我がまだ確立されておりませんから、壊れてしまわないように守護霊や補助霊に守られ、とても大切に扱われます。
皆様が、赤ちゃんに接する時と同じですね。
まだ自我がはっきりしていないのですから当然、万全な体制のもとで物質と赤ちゃん霊を融合させ、個として認識できるように学ぶために物質界で暮らすことになります。

自我が確立していない霊は、皆、最初は物に宿る事になります。
その中でも一番基本的な、物質を構成する一要素として留まる事になります。
この時点ではまだ、考えるという作業が出来ません。
遺伝子に組み込まれたとおりのエネルギー活動をするのみです。

物質は基本的に、そのうちに宿している霊が少なければ少ないほど、不完全で脆く寿命も短くなります。
それは、皆様の身体は一見変わりないように思えても、細胞が死滅と再生を繰り返して成り立っている事を考えてみればわかることと思います。
しかも、その細胞の中でも変異種が生まれることを考えてみれば、必ずしも決められた通りに事が運ぶわけではなく、失敗する場合もあるという事がわかると思います。

そのような訳ですから、遺伝子情報どおりのエネルギー活動を失敗することなく、寿命を全う出来るようになると成長したとみなされ、次は分霊をその身に宿し、統括霊として遺伝子に組み込まれたエネルギー活動をします。
この活動を繰り返し、徐々に統括霊としてその身に宿す分霊の数を増やしてゆきます。
そして、宿す分霊の数が一定数になったところで、初めて生物として物質界で暮らすことになります。

この成長段階に来てやっと、個としての感覚(自我)が、ほんの僅かではありますが芽生えてきます。
物質に宿っていた間は、定められた作業を忠実にこなせるようになることが課題でしたが、生物に宿るようになると、やっと自由意志が与えられ、自ら選択して活動することが可能になります。
これは何を意味しているのかといえば、物質として過ごした経験から霊的知識が増したために、自由意志が与えられても、その範囲内で自ら選択した結果から学べるほどに成長したからです。
この経験を繰り返す事で徐々に霊的知識が増し、より複雑な考えを持ち、自我をはっきりと確認できるように成長するのです。
それに伴い、霊が纏う身体も、より複雑なものへと変化してゆきます。
このように、気の遠くなるような時間と手間をかけて、多くの経験を積んでこられたのが今の皆様ですね。

これらの経験を繰り返して、物質を纏った状態において完成されるところまで成長して初めて、物質に霊を宿す方法を知る事になり、今度は純粋に霊として存在する世界で学ぶ事になります。
いくら肉体を纏うことなく霊として過ごすようになる事ができるようになったとしても、まだまだ知らない知識が沢山あります。
物質を纏っている間は、物質と融合した霊の状態を理解するために色々と学びますが、霊として過ごすようになると、今度は霊そのものの本質を理解するために学び続ける事になるのです。

学び続けて霊として完成されたもののみが霊を生み出す知識を得ることになります。
そうして、完成された霊が生み出した赤ちゃん霊がまた一から学び始める事になるのです。
このように霊の活動には無駄が無く、永遠に命が紡がれてゆくのです。
それはまるでメビウスの輪のようです。

その先があるのか、それともそこで終わりなのかは、まだ私どもの知識では確認できないほど深い知識を必要と致しますので、確認のしようがないのですが、全体の流れと致しましてはこのようなものであると思っていただいて結構であると判断しております。

簡単な説明ではありますが、この知識を基に霊という存在について皆様も是非考えてみてください。

これらの知識が皆様のお役に立てましたならば幸いでございます。

これからも霊的成長を目指して邁進していってください。
どうも、ありがとうございました。

(2008年10月15日)





今回のメッセージは、私たちはこれまでにどのような過程を辿って成長してきたのか、そしてこの先更に成熟するとどの様になるのか——といった、霊が成熟してゆく道程についての解説となっております。
以前、(メッセージ82)で『物体と霊体はお互いに協力関係を保っており、決して切り離して考えることが出来るものではない』と述べるなど、物質と霊のバランスを保つことが重要である点について取り上げました。
今回は更に踏み込んで、『まだ自我がはっきりしていないのですから当然、万全な体制のもとで物質と赤ちゃん霊を融合させ、個として認識できるように学ぶために物質界で暮らすことになります』と、自我が未熟な段階の霊が物質に宿る理由に触れております。
私たち人間を含めた地球上の生物は、物質に宿る霊の中でも、自由意志を行使できるようになった最も未熟な段階と言えるのではないでしょうか。
その中でも、他の動物に比べて人間は多少自由度が増した状態なのでしょう。
霊界の事情について取り上げている霊界通信は珍しくないと思いますが、例えばマイヤースの『永遠の大道』程度に知名度のある霊界通信でも、人間かもしくは人間に近い視点から認識できる範囲の霊界の様子を語っている物が多くを占めており、このメッセージの様に俯瞰的な視点から霊界の情報をもたらしている霊界通信は珍しいのではないでしょうか。
特に、物質に宿った状態での成熟を極めることにより、物質に霊を宿す方法を知り、その後肉体を纏わない霊としての成熟を極めることにより、ついに新たな霊を生み出す知識を得るまでの件は、大まかではありながら私たちの成長の行き着く先を示しており、とても興味深い物があります。

しかし、そこまで成熟を極めても『創造主』とは別個の存在なのでしょうから、霊界の奥深さ、そして果ての見えない成熟への階梯には、ただただ圧倒されるばかりです。

拉致事件は日本が主体的に解決する問題(メッセージ91)

今日は、米国務省による北朝鮮に対する『テロ支援国家指定解除』の話題についてお話したいと思います。

条件付ではあるとはいえ、米国務省による北朝鮮の『テロ支援国家指定解除』に対して、遣る方無い思いをされている方もおられるでしょう。
ですが、皆様にはもう少し冷静にこれらの問題について考えてみていただきたいのです。

日本の問題である『拉致被害者救済』に対して、なぜ、アメリカが主体的に活動する必要があるのでしょうか?
本来であればまず、日本が北朝鮮に対して自らの意思を表明し、拉致被害者救済に向けて主体的に活動を続ける中で、アメリカに対し協力を要請するのが筋というものなのではないのでしょうか?
今の日本の世論を窺っておりますと、『日米同盟』があるのだからアメリカは日本を助けるのが当たり前であるとの認識で議論を展開しておられるように思うのですが、それでは、『アメリカ依存』以外の何ものでもないのではありませんか?

大切なのは、『アメリカが北朝鮮に対してどう接するか?』では無く、『日本が北朝鮮に対し何を求め、どのように接してゆくつもりなのか?』ということではないのでしょうか。
例え、アメリカが北朝鮮の問題から手を引くことがあったとしても、日本としての考えを崩すことなく、毅然とした態度で北朝鮮に対峙する覚悟というものが必要なのではないのでしょうか?
大切なのはアメリカの意思ではなく、日本の意思をきちんと相手国に示し、粛々と実践してゆく事だと思われますが、皆様はどのように思われますか?

因果律を基に考えてみれば、今の日本が抱えている問題は全て、日本国民である皆様が招き寄せた結果なのです。
日本の問題であるにもかかわらず、アメリカに代わりに解決してくれと言ってるようなもので、これでは根本的な原因を解決する事はできないでしょう。

まずは、日本という国の姿勢自体にメスをいれ、改革する必要があります。
最初に北朝鮮による拉致が発覚した時点で適切な対応をしていれば、今ほどの被害は無かったはずです。
簡単に密入国を許してしまう警備体制や、日本国内に暮らし拉致の手引きをしている人々を野放し状態のまま過ごしてきた結果が今の日本なのです。
アメリカを責める前にまず、拉致に対する今までの日本の姿勢を反省し、改める方が余程、拉致被害者救済に繋がると思われます。

まずは皆様が、関心を持って積極的に不正や犯罪防止に努める必要があるでしょう。
そして、必要であれば政府に対しても積極的に働きかけてゆきましょう。
そうした小さな努力がやがて実を結び、犯罪を犯し難い国へと変化する事でしょう。
そうなる事で、新たな被害者を出す危険性は低くなりますし、皆様ご自身も安心して過ごし易い社会になるのです。

日本は今まで、余りにも他国との摩擦を恐れる余り、日本としての要求を押さえ込んでしまう傾向にあったように思います。
それが結果として今の状態を生み出しているのです。
日本の皆様と外国の方々とは基本的に考え方が異なっている事を、皆様は知っておく必要があるのです。
その上でお付き合いの仕方を考えなければ、皆様ご自身が苦しみや悲しみを抱きながら追い詰められてしまうだけなのですから。
相手国の性質をよく観察し、見極める必要があるのです。
その上で、自らの要求と相手国の要求とを摺り合わせるように試み、それでも無理な要求を相手国が押し付けてくるのであれば、毅然とした態度で対応できるだけの余裕を持ちたいものですね。
これはとても大切な作業であり、相手国と過剰な摩擦を起こさないためには必要不可欠なものなのです。

他国との摩擦を恐れるために今まで我慢してきたことが、実は過剰な摩擦を引き起こす原因となっている事にそろそろ皆様ご自身が気付く必要があるのです。
頼めば他国の協力は得られるかもしれませんが、主体的に活動し助けてくれる事はありません。
もし他国に助けてもらう事を皆様が望んでおられるのだとすれば、甘えもいいところです。
皆様ご自身で解決に向けて努力する必要があるのです。

そろそろ自立を考えてもよいくらいに、日本は充分な成長を遂げてきました。
いつまでも『アメリカ母さん』に甘えていては大人になれませんよ。
『アメリカ母さん』を支えられるほど成長しているにも関わらず、その事に気づけない皆様の日本が、これからどのように歩みを進め、どのような未来を築いてゆくのかは、日本国民である皆様の選択にかかっているのです。

これらの知識が皆様のお役に立てましたならば幸いでございます。
皆様の未来を築いてゆくのは、皆様ご自身であることをどうか忘れないでください。
長い時間お付き合いくださり、まことにありがとうございました。

(2008年10月12日)





今回のメッセージは、「最近世間を騒がせている時事問題の中で、まだメッセージで採り上げていない問題についての見解を伺いたい」との管理人の要請に応じて、霊界からもたらされました。

以前、アメリカのサブプライム問題に始まる(メッセージ84)について述べたメッセージにも共通しているのですが、(世界各国と共に)日本はそろそろアメリカ依存から脱却して自立する時期に来ております。
しかし、日本国民(そして世界中の人々)は現状に甘んじて良しとしているので、因果律の作用として、日本の(そして世界各国の)自立を余儀なくされる出来事が起きているのです。
北朝鮮による日本人拉致事件も、その様な経緯の中にある象徴的事件の一つと言えるでしょう。
一連の事件の原因を北朝鮮の国家体制や、その独裁者金正日に求めるのはある意味当然であり、また分かりやすくて安易な選択ではあるのですが、少なくとも事件による被害の拡大と事件の長期化の責任は、日本政府(治安当局)とマスメディア、そして日本の主権者である国民にも問われるべきでしょう。
国民が国家の主権者であるという自覚と責任に対して無関心であり続ける限り、拉致事件はこれからも日本にとって厄介な問題となり続けるでしょうし、同様の事件が今後何度でも再発する余地が残り続けるのだと言うことを、私たちは認識する必要があります。
小手先の間に合わせ的対策を打って誤魔化せる時代は終わったのです。

『不完全で脆い存在』だからこそわかること(メッセージ90)

皆様はまるで『完全な存在』であることが素晴らしいと考え、『不完全で脆い存在』を軽視しがちですが、その『不完全で脆い存在』だからこそ、互いに尊重し、協力し合う精神というものを学べるのです。

あなたという霊が完成される事を目指す心は素晴らしいものだと思いますし、とても自然な流れなのですが、真理の断片を覗いただけであるのにも拘らず、全てを悟った気になってしまうのはとても危険ですので注意が必要です。
足りないからこそ、未熟であるからこそ見えてくる霊的真理があることを忘れてはなりません。

成熟しておられる方々は、自然に周囲の方に対して配慮する事ができるのですが、未熟な方々はご自身の事に手一杯で、周囲の方々の事になかなか関心が向きません。
だからこそ、不完全であり弱い立場にあるのです。
不完全だからこそ、一人では達成できない事柄が多く存在し、その結果として他者と協力する事を覚えるのです。
そして、協力しあった経験を通して、感謝する事や思いやる気持ちを学ぶ事ができます。
ですから、皆様のように成長途上の霊には、不完全である事はとっても大切な事なのです。

弱く脆い存在だからこそ、同じ様に弱く脆い心を理解する事ができますし、思いやる事もできるのです。
これはとても大切な経験であり、全ての霊が経験します。
ですから、不完全で脆い存在であるということに引け目を感じ、卑屈になる事はないのです。
今皆様は、とても大切な経験をしているのですから。

あなた方ご自身が苦しい思いがどのようなものなのかを知っているからこそ、他者の苦しみを思いやれるのではありませんか?
嬉しい事がどのようなものか知っているからこそ、共に喜べる人がいることを幸せと思えるのではないのでしょうか?

このことからも分かりますように、未熟で足りないがゆえに経験する事柄は全て、皆様がご自身以外の存在を理解する上で大変重要であり、欠かせないものなのです。
皆様は今、あらゆる感情を経験する事で、他者の心を理解するために学んでいるのです。
ですから、喜怒哀楽という激しい感情を無理に抑制してしまうのではなく、むしろ大切にするようにしましょう。
その感情は後に必ず、あなた以外の大切な誰かの心を理解する役に立つ事でしょう。

ですから、感情の抑制では無く、上手に制御する術を学ぶ努力をしましょう。
その為には、落ち着いてからご自身で納得できるまで考え、妥協できる所は妥協し、上手に折り合いをつけながらも、ご自身を押し殺してしまわないように解決出来る方法というものを導き出してみましょう。
最初は加減がわからず、失敗を繰り返してしまうかもしれませんが、失敗するごとに徐々に加減がわかってくるでしょう。
『失敗は成功の母』という言葉がありますね。
何事も失敗をしてみなければ確信する事は出来ないのです。

これらの知識が皆様のお役に立てましたならば幸いでございます。
これからも成長のために邁進していってください。
本当にありがとうございました。

(2008年10月11日)





最近は関連の深いテーマのメッセージが続きます。
しかし、霊的知識の理解が十分に深まっていないと、とかく陥りやすい罠の側面と言えるでしょう。
その一例として(メッセージ9)があり、(メッセージ16)があり、(メッセージ50)があり、(メッセージ63)があります。
これらのメッセージを併せて読み込まれることにより、いっそう理解が深まるでしょう。
霊的知識を多少学ばれた方ならば、霊は次々と媒体を乗り換えながら宇宙をさまよう永遠の旅人である——とのたとえ話を耳にされた機会もあるでしょう。
そんな膨大な時間旅行のうちのほんの瞬間的な状態を取り出して、ほんの些細な違いを大げさに分け隔てて「高級だ、低級だ」とレッテルを貼り付けても、それで自身の霊的成長に結びつく訳ではありません。
むしろ、安易で表面的な決めつけによって考えを深める姿勢を失わせ、物事を鵜呑みにしてしまいやすい思考パターンを定着させてしまいかねません。
一般的に「高級霊からの通信だ」とされている霊界通信の内容にしても、時として疑問を抱いてしまう部分が含まれております。
だからといって、少しでも疑わしい部分が含まれていれば、その通信に全く価値がないかと言えば、決してそうではありません。
この世の中に、何も考えずに「〜の言う通りに行えば大丈夫」などといったお気楽なものは一つとして存在しないのです。
だからこそ、ご自身の経験を積み重なる中から「物を見る目」を養い、洞察力や判断力を磨く中から、徐々に物事を的確に捉え、自分自身にとって為になる教訓を読み解く能力が育まれてゆくことでしょう。

経験こそが何よりも重要(メッセージ89)

学ばれている皆様には、霊界では隠し事は出来ず、全ての感情は周りの方々に伝わってしまうと認識されているようですね。
言葉とは違った、もっと意思疎通が図り易い表現手法をとっているというのも、確かに一つの理由ではあるのですが、最も重要な要素としては、より多くの経験を積み、あらゆる感情をその心に抱き、克服している事が大切なのです。

これは皆様の暮らしておられる地上界でも同じなのではないのでしょうか?
より多くの経験を積み克服している事で、判断材料が限定されていても想像してみる事が容易くなるのではないのでしょうか?
ご自身が一度経験していることなのですから、例え僅かな情報からでも全体像を組み立てる事が容易になるのです。

皆様ご自身が経験している事柄に関しては、相手の方を観察する事で、ちょっとした仕草や言葉、表情、そして置かれている立場から想像してみる事が容易くなるのはよくご存知でしょう?
これは、どの境涯においても同じです。
ご自身が経験している事が何よりも重要なのです。
経験していない事を理解する事は出来ません。
皆様はまるで霊が万能であるかのように誤解しておられるようですが、この『霊的な部分』を成長させるために皆様は今、地上界において様々な経験をしておられるのでしょう?
皆様も霊的な存在であるという事を考えてみれば、例え霊の状態でも、その成長度合いがまちまちである事が理解できると思います。

何故そのような状態になるのかといえば、経験し克服できている事柄により、確信している『霊的真理』がそれぞれの霊によって異なっているからなのです。
ですから、より多くの経験を積み克服する事が出来れば、確信できる事柄も増えるため、他の方の思いを想像してみる事が容易くなるのです。
あくまでも、ご自身の経験をもって確信している事が重要なのです。

一部の霊界通信の中には、類魂の経験が己の経験と同等に考えられ、自身が経験せずとも類魂が経験していれば己の経験として成長できるような事柄をメッセージとして送ってきているものもございますが、それは未熟なために単なる知識を確信している知識と勘違いしているのです。
『賢者は書に学び、愚者は経験に学ぶ』という言葉がございますが、これは誤りであり、むしろ『愚者は書に学んだと満足し、賢者は経験に学ぶ』の方が正しいといえるでしょう。
『書』から学べるのはあくまでも『道標』であり、その道標を活かして経験する必要があるのです。

これらの現象は霊媒質の方ならば想像してみる事が容易いと思われます。
こういった方々は霊の思いに引き摺られ易く、実際にご自身が感じたり考えている事というわけではないのですが、思いが引き摺られてご自身の心から発せられた感情と混同してしまい易いのです。
一度、影響を与えている霊から離れてみればすぐに分かることです。
成長度合いが同じぐらいですと、この現象はより顕著に見られるようになります。
ですから、類魂が経験した事をあたかもご自身が経験し、理解したような気になってしまうのです。
例え霊媒質ではなくとも、自我の乏しい方は周りの状況に引き摺られ易く、惑わされやすいでしょう?
そのような訳でございますので、くれぐれも惑わされることがございませんようにお気をつけくださいませ。
あくまでもご自身が経験し克服する必要があるのです。

経験を重ねて確信する真理が増せば、ご自身の思いと他者との思いを混同する事はなくなります。
ですが、混同し勘違いする経験は最低でも一度はいたしますので、それらの通信霊が悪いわけではない事はよくご理解いただきたいと思います。
彼らは、自らの経験から語っているだけなのです。
確信している知識が浅いため、そのように誤解してしまっただけであり、良かれと思っての行動である事を知っておきましょう。

少々話が逸れてしまいましたので元に戻したいと思います。

要するに、霊にも無数の成長段階があり、確信している『霊的真理』の深さで意思の伝わり方も変わってくるのです。
霊になれば全ての感情を隠せなくなるのではなく、確信している真理の深さに応じて、相手を理解できる幅が増すのです。
より成熟した霊が未熟な霊の感情を見通すことは容易ですが、逆は無理です。
なぜなら、経験していない事柄を想像することはできないからです。
ですから、例え地上界を離れたからといって、いきなり全て、包み隠さず分かる様になる訳ではないのです。
くれぐれも勘違いなさいませんようにお願いいたします。

これらの知識が皆様のお役に立てましたならば幸いでございます。
どうぞこれからも霊的成長のために邁進していってください。

(2008年10月9日)





今回のメッセージは、以前(メッセージ37)や(メッセージ63)などで取り上げた、『実践経験を通して確信を深めること』がいかに重要であるかという点について、繰り返し強調する内容となっております。
また、他の霊界通信やスピリチュアル関連書籍をご覧になった方でしたら、類魂に関わる情報を入手されている場合もあると思いますが、このメッセージでは類魂に関する注目すべき情報が語られております。
それが『一部の霊界通信の中には、類魂の経験が己の経験と同等に考えられ、自身が経験せずとも類魂が経験していれば己の経験として成長できるような事柄をメッセージとして送ってきているものもございますが、それは未熟なために単なる知識を確信している知識と勘違いしているのです。』と、それ以降の部分となります。
この点については、管理人も当サイト内で度々取り上げているマイヤースの『永遠の大道』や『個人的存在の彼方』から情報を得ておりました。
「本当に類魂の経験を我が物に出来るのか?」という問いについて、私は「肉体をまとった今の状態では確認のしようがない」という理由から、判断を保留にしております。
とはいえ、漠然と「そんなこともあり得るのかなぁ」程度ではありますが、どちらかといえば肯定的な認識を持っておりました。
ですが、今回のメッセージを目の当たりにした時、マイヤースの類魂に関する情報に懐疑的な印象を抱いたのは事実です。
なぜなら、メッセージの指摘の方がマイヤースの情報よりも理に適っており、なおかつ私たちの経験から類似の事例を示すことが出来るからです。
ですから、上記指摘事項については、マイヤースの情報は信憑性に欠けると思います。

しかし、以前(メッセージ16)でも取り上げましたが、一部に疑わしい情報が混入していたからと言って、マイヤースが地上界にもたらした情報の重要性には変わりがありませんし、むしろ上記メッセージの指摘の裏付けにもなっている点にこそ、注意を傾けた方が、霊的知識の理解を深めることに繋がると思いますが、いかがでしょうか。

皆様へのお詫びとお願い(メッセージ88)

皆様へお詫びとお願いがございます。

メッセージをおろし始めました頃に比べまして、最近めっきりと通信の回数が減ってしまいましたが、これまでにお伝えしてきた一連のメッセージは、バチカンの拠点開放に伴った霊界側での通信訓練の意味も含まれておりますので、一通り訓練を終えた第一陣がバチカンに赴き、今後活動を開始するための準備に取り掛かっているために、新たに訓練生を迎え、練習を開始した影響なのです。

最近ようやく地上界の霊媒の方と霊界側の訓練生との間で調整が取れてきたので、また徐々に通信の回数も増える事になります。
ですが、新たな訓練生を迎えたということは、また一からのスタートになりますので、不慣れなために通信内容が大まかなものになってしまいます。
この影響により皆様には大変ご不便をおかけする事となりますが、これからも変わらずお付き合いいただけたらと思っております。

通信に慣れてまいりましたら今よりも解りやすく、より詳しくご説明できるようになると思いますので、今後ともよろしくお願いいたします。

(2008年10月5日)





さて、このメッセージは現在霊界で行われている活動の状況報告と、以前(メッセージ33)で述べられている様に、当サイトでご紹介している霊界通信が不慣れな霊媒や通信霊の育成目的を兼ねている事情の説明となっております。
しかし、このような地道な活動が今後の欧州圏における拠点解放活動に活かされているのですから、私たちの元を去っていった霊団のバチカンにおける今後の活躍を期待しつつ、彼らの地上界に対する働きかけが具体的な形となって現れる時を待ちたいと思います。

とはいえ、しばらくの間はまばらにしか届かなかったメッセージが、今後数も増えてゆくようですから、霊媒M、そして管理人の私もともに、これからは再び忙しくなりそうです。

改めて『高級と低級』や『聖と邪』(メッセージ87)

繰り返しになってしまうのですが、改めましてお話しておいた方が良いと思われますので、ご説明させていただきます。

皆様はよく、『高級霊』や『聖霊』と『低級霊』や『邪霊』などの色分けをして、霊言や通信について語っておられますが、何を基準に『高級と低級』、『聖と邪』を識別しておられるのでしょうか?
そして、何を根拠に『高級霊や聖霊』からの通信であると判断しているのでしょうか?
内容をよく吟味することなく、表面的な言葉の響きに惑わされてはいないでしょうか?

そもそも、霊には『高級』も『低級』もなく、『成熟』か『未熟』かという表現が最も近いと思われ、確信している霊的知識の幅により成熟度が決まります。

未熟な霊というものは、知らない事が多いため、自身が行なった行為の結果を想像してみることができないのです。
だからこそ、多くの過ちを犯し、自らを追い詰めてしまうのです。
ですが、それらの経験を重ねるうちに、今までは知らなかった事も徐々に理解できるようになるのです。
それらを繰り返す事で成熟度が増し、広い視野で物事を見通せるだけの目を養えるので、今まで価値を見出してきたものに価値があるように思えなくなってゆくのです。
その結果、過ちを犯す回数が減るのです。
これが成長であり、全ての霊が辿る道程なのです。

これらの事からもわかりますように、確かに未熟な霊は過ちを犯しやすいのですが、必ずしも邪な動機から行動しているとは限りません。
純粋に善い事であるとの思いから活動している場合も少なくありません。
ですから、例え未熟であると思われる霊からの通信であっても、その中に霊的真理が含まれている事は充分考えられ、それらの通信をよく読みこむ事で見えてくるものもあるのです。
それとは逆に、例え成熟している霊からの通信と思われるものであったとしても、鵜呑みにしてしまうのはとても危険なのです。
確かに霊的知識をより深く理解しているでしょうが、『完璧』というわけではありません。
時には失敗もしますし、知らない知識もまだ沢山あるのです。
ですから、例え成熟しているとはいえ、まだ学んでいる最中であるということを皆様も理解しておく必要があるのです。

『成熟』であろうが『未熟』であろうが『絶対』ということはないのですから、必ずご自身の経験と知識を基に通信の内容を照らし合わせ、納得のゆくまで吟味し、決断を下すようにしてください。
ご自身を導くのは、あくまでもあなた方ご自身なのですから、周りに惑わされる事のないように気をつけましょう。

(2008年10月5日)





今回のメッセージは、前回のメッセージとも関連があり、なおかつ以前ご紹介したメッセージの内容を繰り返し強調しております。
同様のメッセージが繰り返してもたらされる場合、その内容が基本的かつ重要だと霊界で認識しており、しかも霊界から見て現代の人間に欠けていると感じる要素について、注意を促す為に度々強調する事例が見られるようです。
一見、霊的知識をよく学ばれている様に思われる方でも、上記の指摘について異なる認識を示されている方も見受けられますので、メッセージをご覧の皆様には、ぜひ関連するメッセージも併せて熟読された上で、ご自分なりの結論を導き出していただければと思います。
たとえ結果としてその答えが誤っていたとしても、盲目的に他人の意見を鵜呑みにするよりは、後々の霊的成長に大きく寄与することになるのですから。

罰と戒め(メッセージ86)

今日はとても基本的な事をお話をさせていただこうかと思っております。
皆様もどうぞお気軽にお付き合い下さい。

『罰が当たる』や『天罰が下る』などの言葉を、皆様の世界では『戒め』の意味を込めてよく用いておられますが、実際のところは、別にわざわざ悪を働いたと思われる方のところに神が罰を与えに行くというようなことはございません。
全てはこの世界を司る法則の下に成り立っているものであり、皆様の行動の結果として色々な現象が起きているのです。
『霊的真理』を理解する助けとして様々な経験をするのであって、『悪だから罰する』という単純な問題ではありません。
周囲の方々に不快な思いをさせる事で、自らも不快な思いをする結果となるということを、身をもって学んでいるのであり、それらの経験を重ねる事で徐々に周囲の方々の思いに目を向けられるようになり、慮る心を育むところまで昇華できた時、初めて『真理』が理解され皆様の中で活きたものとなるのです。
ですから、『悪事を働いたら罰する』というところで満足し、思考を滞らせてしまうのではなく、それらの行動の裏にある原因や彼らの心理、そしてその先にある学びに是非、目を向けていただきたいと思います。

全ては因果律に基づいた結果であり、この世界の法則として遥か遠い過去から定められているものなのです。
ですから、もしも皆様の周りで『罰が当たったんだ』と思われるような現象に出会ったとしても、そこで終わってしまうのではなく、その結果に至った原因を探り、解決策を導き出すところまで考えをめぐらせてみていただきたいと思います。
それが例え『他人事』であれ、原因と結果を見通せるだけの眼を育む事は必ず、皆様ご自身が生活してゆく上で役立つ事でしょう。
そして是非、それらの経験をご自身の成長に活かせるように頑張ってみてください。
その先には必ず、今まで気付く事ができなかった『真実』が見えてくることでしょう。

中には『何も悪い事はしていないのに』という風に思われる方もおられますが、それらの現象は全て因果が巡った結果ですので、謙虚に『今』を受け止める覚悟が必要です。
それらの経験の中には必ず、今のあなたに足りない何かを学ぶための材料があるはずです。
その『足りない何か』に気付く事が出来なければ、苦しい『今』から逃れる事は出来ません。
どのような物事にも必ず『原因』があるのですから。
その事をよく肝に銘じ、常に思慮深くあるように心掛けましょう。
その努力は必ず実を結び、いつの間にか苦しみが消え去り、幸せを噛み締めながら暮らしてゆく事ができるようになるのです。
これが霊的成長であり、全ての方が通る道なのです。
是非これらの事柄について思いをめぐらせ、ご自身なりの答えを導き出し、『真理』を確信へと昇華していただきたいと思います。

(2008年10月4日)





『善と悪』や『罪と罰』をテーマとしたメッセージは、これまでにも繰り返し降ろされておりますが、霊的知識の基本であり根幹であると申し上げても差し支えない『因果律』の働きに対する理解を深める上で、非常に有用な材料となります。
同様のテーマが霊界通信として何度も繰り返しもたらされるのは、霊界でも『因果律』に対する理解を深めるのは重要だと考えており、なおかつ地上界を生きる私たちの『因果律』に対する理解不足、あるいは理解の仕方を誤っていると感じているのかもしれません。
ですから、これまでにもたらされた同様のテーマのメッセージを、今回のメッセージと併せてよく読み込んで頂き、なおかつご自身のこれまでの記憶や経験を思い返しながら、もしくはこれからの日常生活で『物事の原因と結果の関わり』に注目しながら日々を過ごされる中で、『因果律』の仕組みを理解するきっかけを見つけることができるでしょう。
日常生活における観察力さえ研ぎ澄ませていれば、霊的知識の理解を深める為の材料は、この地上界にも無数に散りばめられていることに気がつくでしょうから。

2011年5月10日火曜日

複数の霊能力を発揮する霊能者は現代には存在しない(メッセージ85)

今日は、とても大切なお話をしたいと思います。
是非、皆様にご理解いただきたい内容ですので、少々長くなりそうではございますが、どうぞ気長にお付き合いくださいませ。

まず始めに皆様にお話しておきますが、現在の地上界において、複数の霊能力(霊媒能力やヒーリング能力など)を一人で発揮出来る人間が存在する事はありえないと申しておきます。
『それは何故か?』と問われれば、『必要ないから』です。
二千年程前に『イエス』という、人間としては特別な霊能力を発揮した方が存在した時代に生きた方々より、今の皆様が暮らしている地上界の方々の方が、霊的にもより成長しており、求めておられる霊的知識も変化しているため、霊界からの地上界に対するアプローチの仕方も変化しているのです。

そう――二千年前の地上界には確かに特別な霊能力を持つ人間が必要な状態でした。
当時はユダヤ人の『神に選ばれた民族』であるという歪んだ特別意識を戒める意味でも、『イエス』のおこした数々の『奇跡』の存在は必要不可欠であったのです。
その他にも、後の世に対する『布石』としての意味もありました。
霊的な活動は全て一つの計画の下に行なわれており、一連の流れとして繋がっているのです。
だからこそ、『イエスの教訓』が今の世にあっても、多大なる影響を及ぼし続けているのです。
それは、バチカンに存在する霊界との拠点を護り、運営するために必要な出来事であったといえるのです。

今までは、バチカンの拠点も眠った状態でしたが、去年より拠点開放に向けた活動が霊界側にて活発に行なわれております。
今現在では、もう八割方霊界と通じており、今後三年を目処に完全に拠点を開放し、霊的な活動を本格的に開始する予定でおります。

それに、当時地上界にお暮らしの方々は霊的にも未熟でしたので、彼らが霊的真理を理解するためには物質的なアプローチが必要であり、霊界から具体的なアクションをおこす為にも、『イエス』のように霊的に成熟した霊を宿す人間が必要だったのです。
『イエス』は当時の人間及び、今現在の地上界に対する霊的な計画のために、地上界に誕生したのです。
ですが、『イエス』の存在は稀であり、霊界側で綿密な計画を立て、『イエス』自身も多くの訓練を必要としました。
肉体に宿りながら霊的能力を複数発揮するためには並大抵の努力では成し得ませんし、より多くの霊的知識を必要とするからです。
『イエス』は地上界での活動のために多くの準備期間を設け、着実に果たしてゆきました。
それらの活動に関わる、霊界側でサポートをする立場の霊達も同様に訓練し、長い時間をかけて計画は実行されたのです。

これらの事からもわかるように、そう簡単に複数の霊能力を発揮される方が地上界に誕生するわけではないのです。
しかも、肉体には限界があり、一人で複数の能力を発揮する事はとても難しく、綿密に計画された事だからこそ、『イエス』のような人間が地上界で存在できたのであり、そう簡単に出来る事ではないのです。

それに、『イエス』のような存在が地上界に誕生する必要は、皆様の霊的成長と共に無くなりました。
その証拠に、百年ほど前に通信をおろしてきた『シルバーバーチ』と名乗る霊が人間界に働きかけた方法は、霊媒霊が地上界の人間の身体を借りることで伝えてきました。
霊が、直接肉体に働きかけるという方法をとったのです。
これは、皆様の霊的成長に応じて、霊界側で『この方法が適切である』と判断した結果なのです。

そして今、皆様にこのように通信をお送りしている私どもは、霊媒の方の意識の部分に働きかけ、メッセージを伝えております。
これもまた、皆様、地上界の住人が霊的に成長した証であり、私どもの通信を直接受け取れるまでに霊的に成長している霊が肉体に宿り、日々成長のために励んでいるという証拠なのです。
いずれは、特定の霊媒質の方だけがメッセージを受け取るのではなく、個々人がそれぞれの状況にあったメッセージを受け止められるようになる日が来る事でしょう。

このような訳で、もう地上界に超人的な霊能力を持つ方が存在する必要は無くなり、ある役割を持って霊能力を発揮しておられる方がいても、一つの能力に特化した形で発現させ、その能力を磨くというのが今の地上界に対する霊界側のアプローチの仕方であり、『それが一番適切である』との判断から活動しております。
その中でも、ヒーリング能力は徐々にその役割を終える方向にあり、今後は霊媒を通して送られるメッセージ(=霊界通信)が重要な役割を果たすようになるでしょう。
ですから、一人で複数の霊能力を発揮するという特異な現象は今の地上界には存在しないのです。
今後遠い未来に、一人で複数の霊能力を発揮される方が現れるでしょうが、それは、皆様が霊的に成長した結果なので、『イエス』が地上界で暮らしたころのような『特別な存在』ではなくなるのです。
何しろ、その状態が皆様にとっての『当たり前』になるのですから。
もう、『奇跡』を見せる事で皆様の気持ちを霊的真理に向かうように演出する必要はなくなったのです。

(2008年9月28日)





今回のメッセージは、既に霊能者(=霊媒)として社会で活躍されている方、もしくは霊能者に対して強い関心を持たれている方に向けての苦言とアドバイス——といった意味合いを持っております。
なぜなら、現代の日本で霊能者やスピリチュアル・カウンセラーといった肩書きで活動をされている方の中には、質の異なる複数の能力を発揮すると称する方がおられ、また複数の能力を発揮される方ほど優秀な能力者なのだとする認識が影響力を持っていると推察しますが、これまでに私たちが霊界から受け取ったメッセージによると、その様な認識は誤りであるばかりでなく、彼らの霊的成長を阻害しかねない重大な弊害となりうるとの判断からなのでしょう。
さて、この問題は以前(メッセージ8)で管理人の意見として、霊媒が無知な周囲の者によって新興宗教の教祖に祭り上げられてしまう不幸な例を紹介しましたが、霊能者やスピリチュアル・カウンセラーとして活動されている方の中には、上記の不幸な例に当て嵌まってしまう方もおられるように思います。
この問題を扱う際には、霊媒の特性や能力の問題と、霊媒を特殊な存在として扱ってしまう周囲の者の無理解の問題と、二つの側面に分けて考える必要があると思います。

そこで、上記の二つの側面について読者の皆様に考えを深めていただく材料になると考え、以下のような質問に対しての回答を得ました。





メッセージ85を受けた質問と回答


[質問]

以前のメッセージで、私は霊媒能力の特性と、その特性故に陥りやすい危険性について述べたことがありましたが、今回のメッセージには、霊媒が霊媒能力を社会で活かす際に心がけなくてはならない点について、そして一般の方々が霊媒と上手につきあう方法についての、二つの側面について考える必要があると感じました。
そこで第一に、霊的知識に対する理解や霊的成熟度が必ずしも十分ではない霊媒が、彼らの持つ特殊能力故に陥りやすい罠についての解説と、その罠を退ける為に有用なアドバイスがあれば、教えていただきたいと思います。
第二に、霊媒能力を持たない方々が霊媒とうまくつきあう方法——あるいは心構えについて、霊的な観点からアドバイスがあれば教えていただきたいのですが、いかがでしょうか。


[回答]

まず第一に、霊的に未熟であればあるほど、『特別な存在でありたい』と願ってしまう心の動きを理解しておく必要があります。
霊的に未熟な方は、自我が弱いために己を見失いがちになり、その不安を解消するために『特別な自分』や『優れた自分』を演出してしまうものなのです。
これらの行為は全て、無知ゆえの恐れから来るものであり、霊媒師のみならず、誰の心にも潜んでいる思いなのです。
これらの思いが強ければ強い程、大げさに触れ回り、本来の自分よりも大きく素晴らしい存在であるかのように装ってしまうのです。
本来の自分より大きく見せる事で、周りからご自身の身を守ろうとする心の動きが結果として偽りを語らせ、その偽りを悟られないために更に大きな偽りを重ねるという悪循環に陥ってしまうのです。
皆様も『ピノキオ』のお話はご存知でしょう?
自分の未熟さを隠すために、女神に偽りを語るたびに鼻が伸びてしまうシーンはとても印象的です。
このように、ご自分でも気付かないうちに収拾が付かなくなるほど偽りを語り続け、その偽りに自らが振り回されてしまうというとても苦しい事態に陥ってしまい、もう隠し通すしか道が無いように思える程追い詰められてしまうのです。
周囲からの評価が高く、信頼されていればいるほどそのような傾向は強くなり易いのです。
信頼や評価を失った後の『惨めな自分』を想像してしまい、怖くてたまらなくなってしまうのです。
そんな思いをするなら例え偽りの中にあったとしても信頼を得続け『素晴らしい自分』であり続けたいと思ってしまい、後に引けなくなるのです。
このように、霊的に未熟で自我に乏しい方は『己』を見失う事を恐れる余り、演出した『特別で素晴らしい自分』から離れられなくなり、挙句の果てに周囲からの賞賛に酔いしれ己を過信し、下手をすると『特別ではない他者』と『特別な自分』を比べ、周囲の方々を蔑むようになる事さえあるのです。
その結果、自ら築き上げた信頼も評価も失い、ボロボロになるところまで行き着いてしまう方も少なくありません。

このようにならないためにも、霊能力は決して『特別なものではない』ということを肝に銘じておくことが大切です。
全ての方々が霊能力を発揮する下地を持ち合わせており、今現在それらの能力が発揮されていないのは、彼らの成長には必要の無いものであるに過ぎないという事実を知っておく必要があるのです。
そして、霊能力を持ち合わせて生まれてきた皆様には、必ずその能力に対する『責任』が付いて回る事を、常に念頭に置いておく事が必要不可欠なのです。
いつも申しておりますが、ご自身が成した事柄により生じた因果からは逃れる事は出来ませんので、その事をよく覚えておきましょう。

無知な方々は霊的にはとても脆く弱い存在でありますが、それと同時に無限の可能性を秘めた存在である事も忘れないで下さい。
それは決して恥ずかしい事ではなく、誰もが通る道であり、一つのステップなのです。
知らない事で他者に侮られる事を恐れずに、積極的に知る努力を心掛けましょう。
最初は皆無知な存在であり、経験を繰り返す事で徐々に知識が増すのですから、無知であることを恐れたり恥じたりする必要は無いのです。
無知と思われる方々を馬鹿にしたり蔑んだりしている方がいたならば、その態度や言動から、その方ご自身こそが『真理とは何たるか』を理解していないと世間に公言しているようなものなのです。

霊媒能力を持たない方々が霊能者と上手くお付き合いするにもやはり、霊能力は決して特別ではなく、皆それらを受ける下地は持ち合わせているということをよく覚えておく事です。
そして、霊能力を絶対視しない事が重要です。
人間である以上完璧はありえないのですから、常に彼ら霊能者も間違える可能性を念頭に置き、全てにおいて注意深く観察する必要があるのです。

通信霊も決して完璧では無く、私ども霊界の住人が伝える真理はあくまでも真理の断片であり、それが全てという訳ではないのです。
皆様は余りにも無防備過ぎます。
簡単に信じてしまったり、逆によく観察する事も無く退けてしまったりと、よく分からないからと言って考える事を否定してしまっては、折角の成長のチャンスを潰してしまいます。
それでは、いつまでたっても同じところで足踏みするばかりで、前に進む事は出来ないでしょう。
折角、学ぶために最良の環境が用意されているのですから、それを無駄にしては勿体無いと言うものです。

何事に対してもご自身の意見を持つ事を心がけ、その結果生じた事柄に関しては謙虚に受け止め、責任を持って対処する覚悟で事に当たるように努めましょう。
あなた方が誰を信じ、何を成すのかはあなた方ご自身が決める事であり、誰も身代わりになってはくれないのですから、例え霊能者であっても過剰な期待を抱かないように注意しましょう。
そして、彼ら霊能者もあなた方と同じ人間であり、間違いを犯す事もあれば、脆くて弱い心も持ち合わせているのだということをよく知っておきましょう。

これらの知識が皆様のお役に立てましたならば幸いでございます。
長い時間お付き合いくださり、まことにありがとうございました。

(2008年9月29日)





質問に対して丁寧な回答をいただきましたので、あえて付言する必要はないでしょう。
以前(メッセージ29)でも取り上げましたが、この地上界に誕生する人は霊的成長を目的としているのであって、一見優れた人物であるように見えても、あるいは何らかの特別な能力を発揮している人物でも、反面至らない部分を併せ持っているのだという点を見逃してはなりません。
イエスのように、自身の霊的成長以外の特殊な目的を持った存在が地上に誕生する機会は非常に珍しいのです。

さて、メッセージの本筋については以上なのですが、イエスが地上界に誕生した意味についてのメッセージが補足として届いておりますので、続けてご紹介しましょう。





メッセージ85-2


『イエス』が地上界に誕生した意味についてもう少し詳しくお話しする必要がございますので、ご説明させていただきたいと思います。

当時の地上界には、ユダヤ人という『神に選ばれた民族』であると自負して疑わない方々がおりました。
その特別意識は、長い年月を経ることで醜く歪み、まるで自分たちは『特別な存在』であると錯覚し、己を逸し、霊性向上のために努力するのではなく、自分達の地位や名誉を護るために、他民族を蔑む傾向にありました。
当時のユダヤ教の宗教指導者たちは、神から伝えられたとされる『真理』よりも、『神から選ばれた』という、特別意識に目を奪われ、本来、霊界が意図して伝えたメッセージを歪めて利用していたのです。
『直接、真理を伝えられた民族である』ことの意味を歪めて捉え、その事により生じた『責任』を果たすことなく、ユダヤの民を惑わしていたのが当時のユダヤ教の宗教指導者であり、大きな弊害をもたらしていたのです。
保身のために自らの立場を利用していたのです。

それはまるで、シルバーバーチ霊が通信をおろしてきた当時のキリスト教世界の指導者のようです。
彼らもまた、『特別意識』をもち、聖書に記されている『真理』に対して鈍感であり、『イエス』が語った内容をよく吟味する事も無く、都合のよいところだけを引き合いに出し、自らの思うとおりに多くの民を誘導しようとしていたのです。
もちろん、中には『真理』に対して真摯に向き合い、理解する努力を重ねておられる方もおりましたので、そこのところは勘違いの無い様にお願いいたします。
それに、宗派は分かれているとはいえ、『キリスト教信者』を名乗る方々が今現在でも大勢おられる事実を無視する事は出来ません。
いくら、宗教指導者が誤った道を指し示しているとは言っても、『イエスが語った霊的真理』に心引かれ信じている方が少なくないからこそ、今でも多くの信者が存在しているのです。

現在の地上界における、あらゆる宗教の指導者を名乗る方々の中にも、かつての『ユダヤ教指導者』や『キリスト教指導者』のように、己を『特別な存在である』との誤った認識を持ち、多くの民を惑わせているという事実から眼を背けるわけにはまいりません。
全ての方々がそのように誤った認識を己のうちに抱いているわけではございませんが、『特別である』と自負してやまない方が少なからずおられるのも真実であるのですから。
その事に目を瞑る訳にはいかないのです。
私どもにも『霊的真理』を皆様にお伝えする事により生じる『責任』があるのですから。
それは、何も私どもだけに限った事ではなく、『イエス』や『シルバーバーチ霊』にも同様の責任が生じており、今でも霊界にて皆様の霊性向上のために奔走している事をここにお伝えしておきたいと思います。

上記の理由に加えてもう一つ、『イエス』が地上界に誕生した理由があるのですが、それは、未来の世への『布石』となる役割を持っていたということなのです。
今でも、『イエス』の口から語られた真理は色あせることなく、多くの方々に支持され続けているのはなぜかと言えば、それだけの影響力を霊界側で見越した上で計画は実行に移されていたからなのです。
『イエス』は多くの言葉や『奇跡』を通して、今を生きる皆様へ向けて大きなメッセージを残しているのです。
それは、霊的に成長した先にある皆様ご自身の姿であります。
霊的に成熟した人間の姿を示す事で、何を実践する事が霊的成長に繋がり、大きく飛躍できるきっかけとなるのかを後の世の人々に教えていたのです。
そしてそれは、『イエス』が残した数々の言葉や『奇跡』を通して語られた『真理』を通して、後の世の住人がそれらの『真理』を当たり前のものとして認識し、『イエス』が成したのと同じことをごく普通の事であるかのように行なう日が来るという、いわば御手本であり、『イエス』ご自身がその身をもって霊的真理を再現していたのです。
ですから、今地上界でお暮らしの皆様には、超人的と思えるような霊能力を持つ方を間近で観察する必要は無く、かつて『イエス』が残した数々の『奇跡』を通して語られた『真理』を基に、それを自ら確信を持って実践してゆけるように心掛ける事が大切なのです。

『イエス』がその行動や言動から示したのは『真理』そのものであり、それが伝えられてから二千年ほど経過している事を考えたとき、今現在の地上界の住人は霊的にも当時の人々より成熟しつつあるのは必然なのです。
何しろ、私ども霊界の住人が皆様の世界へ何らかのアクションを起こすときは何時も、霊的成長に伴い、皆様方ご自身からの求めに応じた形で行なわれているのですから。
『イエス』の後にどれ程の霊が地上界に働きかけてきた事でしょう。
その事を考えてみれば、皆様は着実に、昔地上界で暮らした方々よりも霊的に成長しているということは疑いように無い真実であるといえるでしょう。
決して、求めるものがいない場所に霊的真理がもたらされる事はないのです。
科学の進歩もまた皆様の霊的成長の証であり、これらの知識も霊界からもたらされている事を考えれば、皆様方の地上界の住人がどれ程の霊的成長を遂げているのかは自ずと知れるというものです。
ですから、霊的に成長した皆様に今必要なのは、インパクトのある『奇跡』では無く、日常生活の中での地道な努力であり、その経験から『真理』を確信するに至るまでに心の変化を促してゆく事なのです。

(2008年9月29日)





イエスが生きたといわれる2000年ほど過去の時代には、ユダヤ人という『神に選ばれた民族』であると自負して疑わない方々がおりましたが、驕慢な選民思想を振りかざしたが故に離散の憂き目をみました。
それから2000年の時を隔てて、彼らは再びかつての故地に自身の国家を築きました。
しかし、独立から60年を経た今もなお、周辺諸国との関係がギクシャクとしている彼らの姿を見ていると、かつてイエスに批判された律法学者の姿が重なってしまうのです。
最近では日本もイスラエルとパレスチナの和解と共生に向けて、「平和と繁栄の回廊」構想の実現を働きかけておりますが、果たしてイスラエルが今後も国家を維持し続け、周辺諸国との関係を改善できるのでしょうか。

2011年5月9日月曜日

世界的経済不況が起きた意味(メッセージ84)

今日は、サブプライムローンの破綻に端を発し、世界的経済不況がおきた意味についてお話したいと思います。

これらの現象は、霊的に見れば必然であり、自ら作り上げた経済システムを上手に活用できずに、振り回されてしまった結果と言えるでしょう。
そして、それは同時に一つの時代が終わり、新たな時代へと移行するための序章とも言えるものなのです。

今までは、世界経済の中心とも言えるアメリカ主導型の構造により世界は繁栄してきました。
反発する国も多く、色々な問題を抱えつつも、アメリカは世界をリードする役割を担い、こなしてきました。
彼らを支えてきたものは『経済力』と『軍事力』が主であるといえるでしょう。
そんな物質至上主義の象徴とも言えるアメリカが経済的に衰退すると言う事には、どのような意味が含まれているのでしょうか?

何だかんだと言いながらも、アメリカに依存している国は今でも多く存在していると思われます。
それらの要求を調整しながら何とかバランスを保とうとしてきたのが今までのアメリカの姿です。
そして疑問を持つ事も無く、『世界の秩序を護るのはアメリカの義務である』と信じて務めてきました。
確かに、そのような綺麗ごとだけではなく、自国の利益を優先的に考えて動いてきた部分も多々あるのでしょうが、それでもやはり、彼らアメリカ国民が担ってきた役割は大きいと言えますし、それら『アメリカ主導型社会』は世界にとって必要な経験であったと言えるのです。

ですが、ここに来てアメリカ経済が危機的状況に陥り、それが世界的に影響を被っているのが現状です。
これはただ単に、アメリカの経済運営の失敗と言うだけで片付けられる問題ではなく、世界的な『アメリカ依存からの脱却』を意味しています。
一部の先進国と言われる国では、協力関係を築くという形で『対等なお付き合い』を実現してきましたが、まだ、発展途上国や後進国などは、力も発言力も弱く、他国からの援助を必要としています。
ですが、そこで問題が発生したのです。
過剰な援助が与えられた事による弊害が発生したのです。
困った事があれば、裕福な国が『援助してくれる』という依存した考え方を植えつける結果となってしまったのです。
本来であれば、自立する事を考え、対等なお付き合いの実現を目指して努力する必要があったのです。
もちろん、自立する方向で努力を続けている国々もありますが、依存体質から抜け出せずにいる国があるのもまた事実なのです。
そして、アメリカが反映し続け、先進国が好景気のままでいては、その路線から転換する事が難しいのです。
世界的に不況になる事により、他国を援助する余裕が無くなる事で、強制的に自立する事を考えなければならなくなる状況に追い込まれる必要のある国がそれだけ沢山あると言えるのです。

これらの現象は、先進諸国にとっての教訓ともなる経験であり、庇護するものと庇護されるものと言う関係を築くのではなく、対等な関係を築き、価値観を共有し、共に繁栄してゆく考えに改める必要があるのです。
今までは、与える者と受ける者という対極の存在として接し、『自立に向けての成長を促す』という事に意識が向かっていませんでした。
それはとても大きな問題であり、霊的成長を停滞させてしまう要因となるものです。
それらの流れを転換させるための経済破綻なのです。

それとは別にもう一つの意味があり、『物質至上主義からの脱却』という意味も含まれているのです。
今の地上界は極端な物質主義に陥り、酷くバランスを欠いてしまっている状態なのです。
崩れてしまったバランスを取り戻すために、過酷な経験を強いられているのです。
決して『物質=悪』というわけではなく、バランスを保つ事が大切なので勘違いをなさいませんように。
物質と霊が共に正常に機能していれば何も問題は起きないのですが、一度バランスを崩せば物事はスムーズに運ぶことなく滞ってしまうものです。
ですから、今の状態から回復するためには、『物質<霊』でも無く『物質>霊』でも無く、『物質+霊』である必要があるのです。
今まで見過ごしてしまった問題に目を向け、真摯に取り組む必要があるのです。
どこか一国の責任ではありません。
全世界が己の問題として考える必要があるのです。
何故なら、今目の前にある問題は自らが招き寄せたものであり、行動の結果としてもたらされたものだからです。
正に今、世界中の国々の人々が『自ら蒔いた種を刈り取って』いる最中なのです。
『因果応報』なのです。

これらの事を踏まえて、どのような対応が必要であるのか、皆様一人ひとりが考える必要があるのです。
国が抱える問題は、皆様一人ひとりの問題でもあるのですから。
政府に依存しているだけでは解決しない事をよく覚えておきましょう。
そして、これからの未来は皆様の手の内にあるのだということを忘れないで下さい。
皆様の行動如何によって、未来は大きく姿を変えるのです。

(2008年9月21日)





今回のメッセージは、アメリカのサブプライム問題に端を発する、世界的な景気後退局面を霊的な視点から捉えた意味合いについてです。
アメリカの代表的な投資銀行の一つであったリーマンブラザーズが破綻し、世界最大の保険会社AIGはアメリカ政府の公的管理下に入りました。
危機はアメリカ一国に止まらず、欧州諸国をはじめBRICsと呼ばれる経済成長著しい新興諸国にも、深刻な悪影響を及ぼしつつあります。
特に上海総合株価指数がピークから(十一ヶ月で)約七割下落した中国や、RTS指数がピークから(四ヶ月で)約六割下落したロシアなどは、特に顕著な影響が表れていると言ってよいでしょう。
もっとも、中国については既に(メッセージ73)で取り上げておりますが、中国もロシアも共に幾つもの問題を抱えていて、遠からず反動が表れる可能性はありました。
しかし、その時期が奇しくも世界の景気後退に重なってしまいましたので、経済的な停滞の影響はより厳しいものとなるでしょう。

さて、以前(メッセージ44)で取り上げたように、現在バチカンの拠点を開放する活動が活発に行われております。
世界はこれから『アメリカによる秩序』、つまり物質至上主義的思考の限界を知り、自分自身の拠って立つ礎を失って、不安と不信と混乱に囚われてしまうでしょう。
ですが、その様な時だからこそ、私たちの国、日本の中から、世界に平和と安寧をもたらす新たな秩序の原型が現れるのではないか——そう考えております。
日本は世界に先駆けてバブル経済の崩壊と失われた十年を経験し、この度のサブプライム危機で受けた痛手も軽微なものに止まっております。
日本は世界の実践的先駆者たれ」と理想を掲げた代議士がおりましたが、『アメリカによる秩序』崩壊後の混乱期を主導するだけの国力と、経験と、能力を備えた国家は日本以外にないのではないかと思えます。
もちろん、その意味は『アメリカに代わって日本が世界秩序を担う』という意味ではなく、『自由と繁栄の弧』に見られる価値観外交の積極的推進が、対等な国家関係と価値観の共有によって世界秩序を共同で維持する体制を育む礎になるということです。
キーワードは『自立』、『価値観の共有』、そして『バランス感覚』です。

最後に、外国の出来事は私たちの日常生活に大きな影響を及ぼすという事実(原油などの資源価格高騰が物価を押し上げ、危険な輸入食品が生命を脅かし、海外からの人の流入が治安の悪化に繋がるなど)を改めて強調しておきます。
特に有権者の皆様には、世界情勢の変化が私たちの生活にどのような影響をもたらしているのか、その関係性と影響力について考えを深めていただければと思います。

2011年5月8日日曜日

国家における『軍隊』の役割(メッセージ83)

随分と長い間ご無沙汰いたしましたが、久しぶりにメッセージをお届けしたいと思います。
今日は国家における『軍隊』の役割についてお話いたしましょう。

さて、皆様は『軍隊』に対してどのような印象をお持ちでしょうか?
『軍隊』と聞くと、『戦争』をイメージしてしまう方もおられるのではないのでしょうか?
ですが、『軍隊』とは『国家のための警備員』であり、戦うためにあると言うより、守る為にあると言えるのです。
即ち、『軍隊』が存在しないということは、警備員もいなければ、セキュリティーシステムも設置されていない豪邸のようなものであり、そのような無防備な状態では強盗に襲われても仕方がないでしょう。
何故なら、危険とわかっていながら警備体制を整えていない時点で『襲ってください』と言っているようなものであり、それが行動として現れているからです。
それに、セキュリティーが充実していれば『強盗しよう』と考えることも無く、真っ当に生きてゆくかもしれない人に、無防備でいることで『邪念を抱かせる原因』ともなってしまいます。
『類は友を呼ぶ』と言う言葉がありますが、上記の現象も同じ事で、犯罪を『招く側』と『犯す側』で、お互いに引き合っているのです。
アクションを起こす側なのか、それとも受ける側なのかと言う違いだけで、性質としては似通ったものを持ち合わせているのです。

今、日本には自衛隊が存在しておりますが、現状では、セキュリティーシステムを備えていながら電源が入っていない状態の豪邸に等しいと言えます。 
折角、警備体制を整えていても、いざと言う時に機能しないのでは意味がありません。
それでは、無防備であるのと違いは無いでしょう。
米軍に依存しきっている国民の皆様の意識を変えないことには、日本の護りを強化するのは難しいと言えます。
そろそろ自立する事を考える時期に来ています。

いくら不景気だと言っても、外国から見れば日本は豊かであり、とても魅力的な国なのです。
そんな国が無防備な状態にあったとしたらどうでしょう?
たちまち侵略されてしまうのではないのでしょうか?
今は米軍が駐留しているために下手に手が出せないだけであり、決して、日本の皆様と周辺諸国の皆様が『同じ様な価値観で物事を考えているわけではない』という事を、よく肝に銘じておく必要があるのです。
皆様が思いつきもしないような事を考えているかもしれないのです。
あらゆる事態を考え、備えておく必要があるのです。
その為に、諸外国からの干渉や侵略、略奪行為の抑止力として『軍隊』は必要なのです。

世界的な価値観の共有化が見られるようになったとき、初めて国境が無くなり、結果的に『軍隊』も必要なくなるのです。
ですが、現状を見る限りでは、今しばらくは必要なようですから、甘い考えは捨てて、現実と向き合い、冷静に対処してゆきましょう。
甘い考えを持つ事が、罪の無い隣人に邪念を抱かせてしまう原因であることを、よく肝に銘じておきましょう。

皆様の世界に、穏やかな笑顔が満ち溢れる日が一日も早く訪れますように。
お付き合いくださり、まことにありがとうございました。

(2008年7月20日)





さて、メッセージにもありますように、1ヵ月半程の間隔を置いた久々のメッセージとなります。
今回のテーマは「国家における軍隊の役割」との事ですが、これまでは大半の日本人が日常生活の中で余り意識をしなくても何とかなっていた問題です。
しかし、20世紀を支配していた国際社会の枠組みが変化し、かつては争いごととは無縁と思われていた私たちにとっても、周辺諸国からの圧力という形で、いつしか否応なく「日本における軍隊の存在意義と必要性」を認識せざるを得ない環境に置かれてしまったように思います。
以前(メッセージ3)では若干触れましたが、一連のメッセージにおいてはむしろ「武力に頼っても争いごとは解決しない」という立場で一貫しております。
ですから、突如軍隊の必要性を説かれても一見相容れない印象を持たれる方もおられる事と思われますが、その様な方にはぜひ「『軍隊』とは『国家のための警備員』であり、戦うためにあると言うより、守る為にあると言えるのです」の意味合いについて、お考えいただければと思います。
社会を構成する全ての人が、「互いにとってもっともメリットを最大化する手段が秩序の維持である」ことを認識し、自ら実践に励んでくれれば、敢えて武力を保持しなくても心地好い社会が維持できるのですが、「社会を構成するのは必ずしもその様な考え方の方ばかりではない」という現実にも目を向けなくてはなりません。
メッセージ77)にあるように、社会の秩序を維持するために(現時点で)必要とされる束縛が、上記メッセージにおける『守る為の軍隊』の存在意義なのでしょう。
一方、日本国内で軍隊に対する否定的な印象を持たれる方の意見を聞いていると、日本が他国に侵攻する懸念を訴える方が多いように見受けられますが、現代においてはむしろ日本が周辺国の侵攻を受ける事態の方が遥かに現実性の高い脅威であることを強調しておきたいと思います。
同じ国の中でも、その中でももっとも身近な家族の間でも意見の食い違いや対立は日常的に起きています。
ましてや、長年に渡って異なる文化や習慣の中で暮らしてきた外国人との意思疎通が、そう簡単に図れる訳がありません。
その様な相手とも、長期的には互いの価値観を共有させて、共に同じ秩序の中で生きた方が双方にとってメリットが高いのですが、その様な好ましい環境を一朝一夕に作り上げることは不可能です。
ですから、お互いが時間をかけて徐々にお互いを理解する環境を作る前提条件として、当面お互いの抱く反感や嫌悪感が強まらないように工夫を凝らさなくてはなりません。
上記のメッセージで「『軍隊』とは『国家のための警備員』であり、戦うためにあると言うより、守る為にあると言えるのです」とあるのは、まさに理解の深まっていない隣国同士が過度の摩擦を深めない為の工夫の一つと言えるのです。

2011年5月7日土曜日

運命と宿命(霊的知識の教科書:12)

『運命』とは運ぶ命と書き、『宿命』は宿る命と書きます。
『宿命』は宿る命ですから、皆様がこの世界に生まれてくる際に、効率よく霊的成長を遂げるためにと選んだ環境や状況、肉体などを差します。
これらの条件は皆様が(生誕前に)前もって選んだのですから、その枠の中から出る事は出来ません。
ですが、その枠にはある程度の余裕がありますので、自ら選び取った行動によって結果に違いが出るのです。
その枠の中の余裕の部分が『運命』といえるでしょう。
運ぶ命ですから、自らの意志で事を運んだ結果得られるものが『運命』といえます。
ですから、『運命』は皆様の自由意志の行使の結果といえるものなのです。
このように、文字というものは大変的確にその時々の状況を表現しております。

『宿命』と『運命』について、もう少し分かり易い例えを使ってお話いたしましょう。

皆様が住宅を購入されたとします。
この住宅ですが、基本的な枠組みの部分を『宿命』と置き換えることが出来ます。
枠組みとは、手を加えてしまうと住宅そのものの重みに耐えることが出来ず、壊れてしまうような基礎の部分を差します。
そして、内装や家具、調度品など、皆様の自由な発想で手を加えられる部分を『運命』に置き換えることが出来ます。
これは、住宅の基礎の部分に守られた範囲内での変更なので、自由に行う事が可能です。
どのような壁紙を張るのか、どのような家具を置くのかで部屋の印象はガラリと変わるでしょう。
また、よく手入れを行なっているのか、だらしなくしているのかの違いでも印象が変わります。
家の建屋自体は同じものでも、皆様の選択次第で全然違う印象を周りの人々に与えるようになるでしょう。

以上のことからもわかりますように、『宿命』は動かしようのないものであるのに対し、『運命』は皆様の選択次第でガラリと変わってしまうという性質を持っているのです。
その動かしようのない『宿命』の中で、幸せな『運命』をいかに引き寄せるのかは、皆様の考え方や行動にかかっているのです。
その事をよく理解したうえで物事を判断し、行動に移すようにしましょう。
今、皆様が抱えておられる問題や置かれている状況は、全て、皆様が自分自身で選び取った結果であるということをお忘れなく。
そして、皆様の心の在り方や行動次第で、同じ環境にあっても幸福を感じながら暮らしてゆけるのだということも覚えておきましょう。
そのように考えますと、皆様が今経験しておられる事柄の中から、霊的知識を確信するほどの学びを得られるのか、それとも何気なく生活し、それらの知識を見過ごしてしまうのかも、日々の生活における皆様の選択次第なのです。
『宿命』の部分で、皆様がそれぞれにこの世界で学べる霊的知識の限界は定まっております。
しかしながら、『運命』の部分で自由に選択することが可能であるため、それらの霊的知識を学び取れるかどうかはその都度変化し、一度で学び取れなければ二度、三度と繰り返す事になるのです。
そのような訳ですから、『運命』と『宿命』は言葉としては似たような響きではありますが、その実は全然異なっているものなのです。
これは大切な事ですから、混同してしまわないようによく覚えておきましょう。

(2008年3月28日)

人のために役立つこととは(霊的知識の教科書:11)

皆様の世界では『利己主義を捨て、利他の精神で人のために役立つことをしなさい』などの言葉をよく耳にするのですが、これらの言葉が意味しているところを本当にご存知なのでしょうか?
そもそもこの『利己主義』なる言葉ですが、読んで字の如く、己の利のために尽くす事を意味しているのですが、これは果たして本当に捨てなくてはならない概念なのでしょうか?
皆様は、それらの言葉の意味について本当に確信を得るほどの経験を積み、確かに理解していると自信を持っていえるのでしょうか?
字面を追っただけで知った気になっているのではないのでしょうか?
『己』を捨てるということは、ロボットと同じになるということなのではないのでしょか?
今の皆様に大切なのは、通信や経典に書かれている内容をそのまま実践する事ではなく、そこに書かれている意味についてご自身なりの考えを導き出す作業であると思われます。
『〜すべきだから成す』とか、『善行と言われているから』などとご自身に課しているうちは、まだ確信するほどの理解を得ているとは言えず、ただ伝え聞いたり読んでみたなど、一応知っているといった程度のものなのです。
それでは真理の確信にはまだ辿り着いているとは言えず、それこそただの自己満足に過ぎないのではないのでしょうか?

人は皆、霊的な成長に伴って求める対象が変化してゆくものです。
最初は、己のためだけに欲求を満たし、周りの方々に大きな被害をもたらすかもしれませんが、それらの欲求はいくら満たしてもすぐに飢え乾いてしまうのです。
そうなると、今までは満足できていたものでは『足りない』と感じるようになり、新たなものを求め始めます。
その様な活動を繰り返すうちに、『己』の枠組みの中に『愛する人』が含まれるようになります。
そして、今度は『愛する人』と共に喜べるようなものを欲するようになります。
最初は『愛する人』が、恋人や配偶者など一人だけかもしれませんが、いずれ子供が産まれると二人に増えます。
その後、『愛する人』の枠はどんどん広がり、家族だけで喜びを分かち合っていたのがやがて、友人もそこに含まれるようになり、近所の人たち、同じ街に暮らす人たちと、どんどん広がり続け、やがては世界へと広がってゆくのです。
このように、自然に『己』と同じ枠組みの中で考えられる人の数が増えることで、周りの人たちの身に起きている事がまるで自身のことのように感じられ、その結果として行動せずにはいられなくなるのです。
これが『人のために役立つ』という言葉が本当に意味しているところであり、「そうしたい」と心から求めてしまう行動が、結果として周りの人の役に立っているということなのです。
自身に課したものでもなければ、誰かの言いなりになったわけでもなく、思うがままに行動した結果なのです。
決して『己』を捨てたのではなく、『己』の枠組みが広がっただけなのです。
これが、本当の意味で真理を確信した結果といえるのです。
『己』を強く意識することは自我を強く保つ事に繋がるのですが、これはとても大切な事なのです。
自我を強く保てないというのは無知の現れであり、無知が恐れを抱かせ、過剰な自己防衛のために周りの方を傷つけてしまうという場合がよく見受けられます。
皆様の言う『利己』の延長上に『利他』があることをよく覚えておきましょう。

『利己と利他』という表現はあまり適切ではないのですが、過去の通信においては皆様に分かり易くご説明しようの意図から、これらの言葉を使ったのでしょう。
ですが、かえってこれらの表現が誤解を生む結果になってしまいましたので、今、この場で改めてご説明させていただいているのです。
『利己主義を捨て、利他の精神で人のために役立つことをしなさい』とは、『霊的に成長して真理を確信すると、自然にこのような行動をとるようになりますよ』という意味であり、目標として伝えられたのであって、理解できないのに『成しなさい』という意味ではございませんので、間違えないように注意していただきたいと思います。
あくまでも、『そこを目指して霊的成長に共に励みましょう』という、激励のようなメッセージであるとご理解下さい。
霊界通信の複雑さにより、こちらの意図が中々完璧に皆様の元に伝わることはございませんし、皆様ご自身の理解の程度や、私ども自身の知識の限界といった様々な要因も重なっているなど、上手い具合に表現する事は難しいので、場合によっては勘違いするような表現が使われていることもありうるのです。
それはこの通信に限らず、過去の通信や聖書、経典などにも言えますので注意しましょう。
文章が古ければ古い程、途中で皆様の解釈が入り混じって伝わっていたり、書き換えられたりしている危険性が高まるので、特に注意が必要です。
だからこそ、ご自身の経験に基づいた知識や知恵を総動員して考える癖を身につけ、ご自身なりの答えを導き出す努力を怠らないようにしましょう。
その為にも、好奇心を持ち続けるのは大切な事ですし、向上する意欲も重要といえるでしょう。
皆様にお願いしたいのですが、鵜呑みにして言いなりに動くのではなく、ご自身が心から欲するところを成し、その結果を謙虚に受け止める努力をしていただきたいと思います。
それが無知からの唯一の脱却法であり、なおかつ一層の霊的成長へと繋がってゆくのです。

(2008年3月20日)

負の感情を抱くということ(霊的知識の教科書:10)

日常生活の中で、苦しみや悲しみ、不安や恐怖、絶望などを皆様も一度くらいは感じた事があるのではないでしょうか?
これらの感情は知識不足による霊的視野の狭さから来るものなのですが、これらの感情を抱くのは霊的成長の途上においてはごく自然な反応であり、霊的知識を確信する上で重要な役割を果たす要素となります。
不安や恐怖などの感情があるために常に注意深さを心がけ、無謀な行動を防いで身を助けるための役に立ちますし、苦しみや悲しみ、絶望を感じるからこそ、人の心の温かさに触れた時に、何とも言えない感動を覚える事が出来るのです。
これらの感情は、皆様にとって己の限界を知るバロメーターの役割を果たしております。
己の限界を知っていることは霊的成長を遂げる上で大変役立つのです。
いくら努力が大切だといっても、限界の遥か先を行く事柄にいくら挑戦したところで、ご自身の身体や精神を蝕むばかりで、霊的成長などとても望めないでしょう。
これらの行為は努力ではなく無理をしているのであり、無謀な行為といえるのです。
限界のほんの少し先にある事柄をコツコツと地道に行い、経験を積むのが霊的成長には一番の近道といえるでしょう。
『塵も積もれば山となる』という言葉がありますでしょう?
実は、これが一番確実な方法なのですよ。
どのような物事でも一朝一夕に成せるものなど何も無いのですから。
『これさえ成せばあなたも完璧』などという、まるで魔法のような効果を上げる方法など無いのです。
一足飛びに物事が運べば確かに楽でしょうが、それでは確信を得ることは叶わないでしょう。
皆様が地上界に生まれてきた目的はただ一つ、霊的知識に対する確信を得るための経験を積むためなのです。
その結果として霊的視野が広がると、また新たな世界へと赴き、更なる成長のために多くの経験を積むのです。
このようにして成長を遂げた先に何が待ち受けているのか、創造主は何のためにあらゆる霊的存在を創造されたのかは、今の皆様や私どもでは想像もつかないことであり、考えても仕方のない事ではございますが、成長し続けていればいつかその謎も解き明かされる日が来ることでしょう。
今は出来る事をコツコツと成し続け、少しでも霊的視野が広がるように努力してゆきましょう。
その様な日々の積み重ねが、皆様の心を穏やかに、幸せを感じながら暮らせるようになる唯一の方法なのですから。

この世界に存在する全てのもの、あらゆる感情、これらは皆必要であるからそこにあり続けるのです。
『有害、無害』、『善悪』、『優劣』と皆様が判断ているものの内、いわゆる負の感情に属するものがこの世界に必要ないのであれば、世界そのものに負の感情の概念は存在しない事でしょう。
皆様はその存在を知らず、触れる事も無く暮らしている事でしょう。
この事実が何を意味するものであるのかは、思慮深い皆様にはもうお気付きの事と思われます。
一つの事柄に対して『善悪』のように存在そのものに基準を設け、判断をしているのは皆様ご自身の心であり、皆様の目の前にある事柄自体には、そのような決まった形は存在していないのです。
同じものを見てもどのように感じるのかは『十人十色』であり、一つの価値観に収まるようなものではないのですから。
『何が善くて何が悪いのか』では無く、今の皆様にとって『何が一番大事で何に安らぎや喜びを覚えるのか』のほうが余程大切な事なのではないのでしょうか?
もちろん、どのような物事にも全てに因果が働きますので、どのような結果が待っているのかは皆様ご自身の行動次第と言えるでしょう。
その結果、どのような事態が待ち受けていたとしても、それは皆様が成した事の結果であり、その結果を通してしか、ご自身の成した事柄の意味を悟る事は出来ないでしょう。
成長するにつれて悲しみや苦しみが減り、喜びや笑顔が増えてゆくことでしょう。
どのような経験もそれぞれに大切で価値あるものであり、霊的成長に決して欠かせない要素である事を皆様も覚えておきましょう。

(2008年3月7日)