2011年5月6日金曜日

喜びを感じながら生きるという事(霊的知識の教科書:6)

『喜びを感じる』と一言で申しましても、その対象や状況などは人によって千差万別です。
そのような感情は、一番興味を持っているものや事柄に対して強く感じるもので、気持ちが満たされるように感じるのです。
それらの経験は繰り返し積み重ねられ、年月が経ち霊的に成長するにつれて興味対象も変化し、ご自身の気持ちを満たすことから、他の方たちとの関わりの中で共に満たされる事に興味を持つようになるなど、徐々にご自身の世界が広がりを見せてゆくのです。
そのような成長は大変望ましい事であり、心が平和で落ち着いた状態だといえるでしょう。
このように、経験を積み重ねる事で必ず一人から二人、二人から三人といった具合に、共に喜びを共有できる人数は増えてゆくものです。
これらの現象はどの様な事を表しているのでしょうか?
最初は一人だけで喜びを感じ、その喜びを得る為には他の方のことなど関心すら持たなかった事でしょう。
もしかしたら、己の心を満たすために他の方を傷つけていたかもしれません。
ところが、そのような喜びは長続きするものではなく、すぐに虚しさや寂しさなどを感じるようになるでしょう。
そうするとまた心を満たそうと活動を始めるのですが、そのような喜びは繰り返せば繰り返すほど長続きしなくなり、より一層の虚しさや物悲しさを感じるようになるものなのです。
そしてそれらの喜びは仮初めのものであり、無意味なものである事を知るのです。
そうなると今度は、周りにいる方に目が向くようになってまいります。
最初のうちは、本当に気が合うお気に入りの方としか共有できないような喜びを追い求めるかもしれませんが、それらの経験が繰り返されるたびに、徐々に共に喜びあえる人数が増えてゆくものなのです。
これが成長であり、視野の広がりであるといえるのです。
この現象は、喜びを感じる対象や状況が経験を積む事で徐々に変化し、多くの方々と共に喜びを分かち合えることが、どれだけ幸せで喜ばしい事なのかを学んだ結果なのだといえるでしょう。
ですから、一概に他の人のために何か善行と呼ばれる事を成せば良いという訳ではないのです。
人それぞれに霊的成長の速度や、経験を積んだ方が良いと思われる事柄が異なるため、『これを成せば必ず成長する』という処方箋は存在せず、その時々で臨機応変に物事を考えなければならないのです。
生まれたばかりの赤子に『自分の足で歩け』と言っても無理な事は、皆様にはよくご存知の筈でしょう?
霊的知識に対する解釈や考え方、興味対象や理解力の違いなどは当たり前に存在するものなのではありませんか?
ある方にとっては喜びを感じられる対象であっても、興味の無い方に『喜べ』というのは酷な事と言えるでしょう。
ですから、霊界通信や経典などに善いと書かれているから実行するなどという、早まった真似はしないでいただきたいのです。
盲目的に経典などの言葉に従うのではなく、ご自身の心の声に従っていただきたいのです。
そうしなければ、己のものとして確信し、霊的成長を遂げることは出来ないでしょう。
経験を通してしか真の確信は得られないことを、よく肝に銘じておいていただきたいのです。
例え善行と言われる事柄でも、ご自身の霊的成長とあわないことを実行したところで苦しいだけで、かえって心を病んでしまう結果になりかねません。
皆様の世界ではよく『他の為に』とか、『自己犠牲の精神で』といった考え方が最も素晴らしいもので、霊的成長の近道であるとの言葉を良く聞きますが、それは本当なのでしょうか?
人により霊的成長は千差万別であり、霊的成長に繋がる経験も様々に存在しているのです。
人は皆一人ひとり違う速度で霊的な歩みを進めており、『これさえあれば大丈夫だ!』などといった妙薬のようなものは存在していない事を知っておきましょう。
そして、ここで述べられている『他の為に』や『自己犠牲の精神で』という言葉で表現した物事の、本当の意味についてよく考えてみましょう。
文字通りに受け取ってしまうと、『自分の命は捨ててでも他の人の命を助けましょう』と言う意味に受け取れます。
でもそれは無理なことなのではないでしょうか?
この解釈ではご自身の命を軽んじている様に感じられます。
ご自身を大切に出来ない方が、どうして周りの方を大切に出来るのでしょうか?
考えてもみてください、ご自身の命を大切に思うからこそ、周りの方々に目を向けた時に、ご自分以外の方にも大切な命があると思えるのではないのですか?
ご自分が不快だと思うからこそ、周りの方も不快に感じるのではないかと察する事が出来るのであり、嬉しいと思うからこそ、周りの方も嬉しいのではないかと想像してみることが出来るのではないのでしょうか?
本当の意味で周りの方々を大切に思い、愛を示してゆくためには、まずご自身を大切にし、愛していなければ叶わない事なのです。
ご自身を通じて命の大切さが痛いほど解っているからこそ、他の方が危機に陥った時にも、相手の命をまるで己の命であるかのように感じ取って、危機に立ち向かえるのです。
これは決してご自身の命を犠牲にしようと思っての行為ではなく、相手の方の命をご自身の命と同じ様に愛し、大切に感じるからこそ出来る行為であり、無意識の内に駆け出してしまっているのでしょう。
その結果として命を失う方もおられるでしょうが、最初から己の命を投げ出してしまうつもりで危機的状況に身を投じてしまっては、誰かの命を助けることなど叶わないどころか共倒れになってしまうでしょう。
この様な場合、『共に生きて帰るんだ』という強い意志があれば、共に助かる可能性はグンとアップしますし、もしご自身の命が果ててしまったとしても相手の方の命が助かる確率は高くなるものなのです。
因果などの影響もありますので一概には言えないことなのですが、最後まで諦めない精神の強さが身を助けるのです。
このように、自然に体が動いてしまうほど理解が深まって初めて出来る行為なのではないのでしょうか?
それらの霊的真理とご自身が一体と化しているからこそ、自然に実行出来るようになるのです。
これが、真理を己のものとして確信するということなのではないのでしょうか。
『成さなければならない』と、半分強制的な形でご自身を奮い立たせて行なう性格のものではないのだとご理解いただきたいと思います。

何事もご自身で経験し、感じ取ってみなければ解らないものであり、それらの経験を積むためにはご自身の思う所を成し、多くの感情の中で試行錯誤しながら、少しずつ視野を広げてゆくしかないのです。
経験を多く積んだ方が、いかに素晴らしく喜ばしい事だと思うものであったとしても、未熟で異なる視点の方に、それを『理解し同じ事を実行せよ』といくら言ったところで、無理強いをしているだけの迷惑なお節介でしかないのです。
人にはそれぞれ、その時々にあった学びというものがあることを理解しましょう。
より広い視点を持った皆様は、狭い視野の方をサポートしながら長い目で見守るしかないのです。
やがて経験を積む事で成長し、共に同じものを素晴らしいと思えるようになるでしょう。
皆それぞれに喜びを感じる視点が違う事を知りましょう。
そして未熟である事は悪でも罪でもなく、皆が経験してきた道であることを覚えておきましょう。
そして広い心で接し、決して蔑んだり、軽んじたりする事の無い様にしましょう。
それらの感情は皆様ご自身を堕落させ、傲慢で驕り高ぶった心を芽生えさせてしまいます。
例え霊的知識に触れ、その中で実践するとよいと書かれているものであったとしても、心から素直に頷けない事柄を無理に実践する必要は無いのです。
私どもの通信に関しても同様です。
私ども自身の経験から理解している霊的知識を参考としてお伝えしているだけであり、絶対に従わなければならないようなものではないのですから。
それに、ご自身の行動や言動に対して責任を取れるのはやはりご自身だけであり、他のどなたも代わる事は出来ないのですから、強制的に従う必要が無いのは当然のことなのです。
とは申しましても、秩序を乱し、街を混乱に陥れ、多くの方に迷惑をかけた者をそのまま放置しておいてよいと言っている訳ではありません。
皆様の世界には皆様の世界の秩序を守る為の約束事が存在し、秩序を乱した者もその約束事を承知の上で実行に移したのでしょうから、当然罰則が科せられることも承知のはずです。
彼らはきっとそれらの罰則が科せられることで、己がしたことの意味を悟るでしょう。
例え一度では解らなくとも、二度三度と繰り返す事で徐々に悟ってゆく事でしょう。
これらの経験も彼らにとってはとても貴重な学びの場なのです。
ここで学び、霊的成長に結びつける事が出来るかどうかはご本人の努力次第でしょう。
こうして彼らにとっての喜びも少しずづ変化してゆくのです。

(2008年2月20日)

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