2011年5月6日金曜日

物質に囲まれて暮らすという事(霊的知識の教科書:4)

皆様が肉体を纏い、物質の溢れた地上界で暮らす必要があるのはなぜなのでしょうか?
簡単に申し上げれば、地上界の環境や肉体を纏っている状態である事が、皆様の霊的成長にとって一番望ましい学びが得られるからなのです。
それに、皆様が暮らしている地上界も霊界の一つの形であり、一部なのです。
物質を纏っている人間は霊よりも劣っているのでしょうか?
答えはNOです。
決して劣っていたり、罪深い存在と言う訳ではないのです。
では、なぜそのような認識が広まってしまったのでしょうか?
答えはとても単純な事なのです。
地上界でお暮らしの皆様は霊的視野に乏しくなりがちで、どうしても物質のみに執着し、霊的成長を阻害するような事柄を好みがちなので、一度経験すれば理解できるような事柄であっても何度も繰り返す方が大勢おられるのです。
その為に、霊界の先輩達が通信を送る際、物質に偏ったものの見方を戒め、少しでも霊的成長を遂げられるようにと、特に強調した内容のものを送ってしまったために、その通信の背後に隠されている真理に気付かないまま、皆様の世界で広まってしまったのです。
皆様は決して劣った存在と言う訳ではなく、経験が浅いために未熟であるというだけの事なのです。
それらの問題は経験から学び、知識が増せば解消される事であり、霊として誕生した全ての者たちが通る道なのです。

物質の世界観のみで考えて行動し、その中で苦難に遭い、悩み、悲しみながら生活することでしか学べないことというのがあるのですが、本来なら一度経験すれば以前よりは少し霊的に成長できるので、視野が広がります。
ですから、次に同じ様な苦難に出遭ったとしても、その時は以前とは違う視点から観察する事が出来るようになっているので、新たな学びを得ることが可能であり、その結果、知識が更に増すはずなのですが、同じ所で足踏みしておられる方が大勢おられるのです。
だからこそ、過去に通信を送ってきた霊界の先輩達や私どもは、知りうる限りの知識を地上界の皆様にお伝えすることで、皆様が霊的成長を遂げる際の助けとなればと願い、知識が必要になった方々の手の届く所に常にあるようにと、日々活動を続けているのです。
ですが、大変残念な事に、それらの活動がかえって弊害になっているケースもあり、見過ごせない状況になりつつあるので、今、私どもは更に解り易く詳しい霊的知識をお伝えする活動をしている最中なのです。

さて、それでは本題に入りましょう。
皆様は、なぜ地上界の中で肉体を纏って暮らす選択をしたのでしょうか?
当然、地上界に誕生する前はその理由をよくご存知だったはずです。
そして、この地上界においての生活を通してもたらされる霊的知識の数々についても、当然のことながらご存知であったのです。
それらの知識を本当の意味で理解するために、この地上界を選んでわざわざ生まれるように自ら望んだのです。
ただ、それらの記憶は霊的成長を遂げる上で邪魔になるために、地上界にいる間は思い出せないだけなのです。
肉体がその役割を果たし、効率よく成長を遂げるための助けとなっているのです。
肉体を纏うことによって、五感にのみ感じられる事柄からしか学べないものや、霊的側面から物事を見られないから学べる事というものが存在するからこそ、この地上界が存在しているのです。
そのことは、決して忘れてはならない事であり、大変重要な事なのです。
物的現象や感情を通すからこそ学べる霊的知識というものが無数にあるのです。
だからこそ、皆様にはご自身の今の心の状態を無視して、他の方々が善行と言われるから実行するとか、悪行と言われる事だから止めるというのではなく、なぜそのように多くの方々に認知されるようになったのかをよく考え、その上で納得できる事柄なのであれば、初めてそこで実行に移すか止めるのかを決めるようにしていただきたいのです。
よく考えた結果、例え悪行と言われる事柄を実行してしまったとしても、その経験から学べる教訓は沢山あり、逆に言えばその経験からしか得られない教訓や知識もあります。
当然、周りの方々に不快な思いをさせてしまうのですから、その結果として因果が働き、それを解消するために大変な思いを経験する事になりますし、地上界の法によっても罰せられる事になるでしょう。
それから、例え皆様が善行であると思っていることであっても、霊的観点から見たら成長の妨げになっている場合もありますので、充分に気をつけましょう。
それらの事柄をどの様に見分けるのかといえば、結果を見れば一目瞭然なのです。
善い事をしたつもりでも、自己満足で終わっている場合は、相手の方が反発したりあなた方を恨むようになったりと、当初思い描いていた結果とはかけ離れてしまうものなのです。
相手の方が快く受け入れられない事柄を押し付けるのは、単なる自己満足の驕りであり、相手の方を愛している事にはならないのです。
あなたが成した事が、例え本当に相手の方を思っての行動であったとしても、相手の方の状態や成長度合いを考えないで、ご自分の価値判断で行なうのはとても不親切で失礼な事であり、そこまで考慮出来ないのであれば何もしないほうがマシなのです。
なぜかと言えば、押し付けのお節介になりかねないからです。
が、そうは申しましても、誰でも必ず一度は失敗を経験するものです。
なぜなら、初めての時はどなたでも、どの様にすれば良いのか答えを知らないのですから。
霊的知識は、失敗を通して試行錯誤を繰り返す中からしか学ぶ事は出来ないのです。
もしあなた方の親切心が仇となってしまったのであれば、受け入れない相手の方を責めるのではなく、ご自身の行為が本当に相手の方にとって理に適っていたのかをよく考えてみることです。
それらの活動と思考を繰り返す事で、必ず霊的成長は遂げられるものなのです。
とは申しましても、決して相手の方々の言いなりになり、彼らの思うところを満足させるという意味ではなく、お互いに納得できる形の援助方法というものを探り、共に霊的成長を遂げるために試行錯誤するという意味ですので、勘違いなさいませんようにご注意下さい。
最終的には、相手の方がご自身の力で自立して生きてゆけるようにならなければ意味が無いのですから。

何よりも大事なのは、ご自身で決断し、その結果に対して責任を負う覚悟を持つという事なのです。
例え最初は悪人と人々から後ろ指を差されていようと、その心構えさえあれば必ず成長に繋がります。
それよりも厄介なのは、他の方の言いなりになり、責任は全てその方に押し付けてしまう方々なのです。
そのようなことでは、例え善行と呼ばれる事柄で人助けを果たしたとしても、成長などありえないことを知りましょう。
それはあなたご自身の考えや決定ではなく、ただ盲目的に従っていただけなのですから。
残念ながら皆様の世界では、宗教団体に属しておられる方の大半がこのようにご自身の意思ではなく、ただ経典に従って暮らしていれば救いが得られると勘違いして、盲目的に生活しております。
それでは学びが得られないばかりでなく、周りの方々に不快な思いをさせる原因になってしまいます。
経典に書かれている言葉の背後にある真理を読み解くためには、単に字面を追うのではなく『なぜその言葉を用いて表現しているのか?』や、『何を伝えようとしているのか?』と、ご自身の持ちうる経験や知識を総動員して、よく考えてみる必要があるのです。
全てをご自身の心の思うところにより判断、実行し、その結果はご自身の責任として受け入れてゆく覚悟を持って暮らしてゆきましょう。
ただ単に従順に従っていればよいというわけではないのです。
ご自身で納得して行う事が大切なのです。
そこには、物的も霊的もありません。
全ての物事は霊的成長のための糧として存在している事を忘れないようにしましょう。
最初は未熟でも、経験を積む事で徐々に成熟し、いずれは新たな世界へと羽ばたいてゆくのです。
この世界の全ての現象は、一側面だけで推し量れるようなものではない事をよく理解しておきましょう。
必要だから地上界があり、物質が構成され、霊的に鈍くなる肉体を纏うのです。
霊界通信による知識は絶対的なものではなく、成長のための参考としてもたらされている事をよく理解しておきましょう。
それらの知識に触れなくても、この世界の経験を通して必ず成長を遂げ、新たなステップへと進んでゆくものなのです。
ただ、それだけでは霊的知識に触れた事のある方よりも遠回りをしてしまい、何度も同じ経験を繰り返す結果になるかもしれません。
とはいえ霊的知識に触れたからといっても安心してはいられません。
それらの知識が示す事柄を理解できるように努力しなければ、何も意味がないのですから。
これらの知識に興味を持たれた皆様は、是非、それらの知識を己のものとして確信を得られるように追求してみてください。

(2008年2月18日)

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